坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「真実な愛の関係を」

2023年9月10日 主日礼拝説教
聖 書 マタイによる福音書5章27~32節
説教者 山岡 創牧師

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫(かんいん)するな』と命じられている。 28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通(かんつう)の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」


  「真実な愛の関係を」
 19歳にして聖書を熱心に読み始めた頃、今日の聖書の言葉には非常に悩みました。もし主イエスのこの言葉を、ストレートに受け止めるとしたら、私は自分の「右の目」(29節)を捨てなければならない、「右の手」(30節)を切って捨てなければならない。そう思ったからです。思春期が始まり、20歳を迎えようとしている若者にとって、異性を「みだらな思いで」(28節)見ない、というのはほとんど不可能な話でした。正直、この御(み)言葉には蓋(ふた)をして棚に上げておきたい気持でした。けれども、自分の心の中にそのような思いが湧き上がる度(たび)に、この御言葉が浮かび、葛藤(かっとう)せずにはおられませんでした。
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 「姦淫するな」(27節)。律法(りっぽう)の中心である十戒(じゅっかい)の7番目の掟として、旧約聖書・出エジプト記20章14節に記されています。姦淫という言葉を調べてみると、性に関わる不道徳の事とか、男女間の倫理(りんり)に背いた肉体関係といった説明がありました。
 けれども、道徳や倫理というものは時代によって変わります。ずいぶん前の時代に、“男女7歳にして席を同じゅうせず”という倫理感がありました。その感覚で、学生が同じ駅で降りる男子校と女子高があって、男子は道の左側を、女子は右側を歩くと決められていました。それを破った男子が停学になったといいます。今の時代では考えられないことです。時代、年代によって性について道徳観、倫理感は大きく違います。
 では、私たちが基準とすべきものは何でしょうか?それは、神さまと私たちとの関係、つまり信仰です。聖書においては、真の神、主なる神以外の神を信じる偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)のことを姦淫といいました。俗(ぞく)っぽい言い方をすれば“神さまに対する浮気”です。神さまは「わたしは熱情の神だ」(出エジプト記20章5節、口語訳聖書では「妬む神」)と言われます。信じる者が別の神になびくと熱情を燃やして取り戻そうとします。真実をもって神さまを礼拝し、愛する。聖書において、男女の関係は、神と信じる人間との関係を基にしたものです。神さまと私たちの関係は、目に見える関係ではなく、見えない関係、“心の関係”です。だからこそ、生理的な欲求はともかくとしても、単に女性が人妻か未婚か、また肉体関係があるかないか、そのような形式や表面上の問題ではなく、心の真実が問われているのです。
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 「姦淫するな」。ことろが、当時のユダヤ人は、この律法を、男性の都合でかなり形式的に、表面的に捉(とら)えていたようです。人妻と姦淫すれば石打ちの刑になるが、未婚の女性であれば問題ない。たとえ男性の側の強引な、一方的な行為だとしても、責任を取って結婚すればよい、と考えられていました。心の中の「みだらな思い」なんて、ほとんど問題にならなかったと思われます。要するに女性が“モノ扱い”なのです。人格を持った一人の人間として見ていないのです。
 その身勝手な感覚が現れているのが、離縁の掟についての解釈です。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」(31節)。旧約聖書の申命記24章に記されています。この箇所には「妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは」(1節)離縁してよいと書かれています。恥ずべきことって何でしょう?主イエスの当時のユダヤ人は、妻の料理がまずいという理由で離縁して良いと考えていました。それどころか、妻よりも美しい女性が現れた、ということが離縁状を渡す正当な理由になったようです。それが正当化されるなんて!考えられないような勝手な解釈ではないでしょうか。
 神さまを信じているのに、なぜそういう考え方になるのか?不思議です。もちろん、すべてのユダヤ人がこのように考えるわけではないでしょう。聖書の中には、内面的な信仰と高潔(こうけつ)な倫理観を持った人物が何人も登場します。無名の人々の中にだって、そういう人が少なからずいたに違いありません。
 けれども、私たちも含めて人間には、神の言葉を、神さまの御心(みこころ)を、自分勝手に解釈し、それを“これが神の御心だ!”と言って自分を正当化するところがあります。信仰とは、自分を支え、導く大きな力になりますが、一歩間違うと自己正当化につながります。“自分の信仰はこれでよいのか?”と自己吟味を忘れない姿勢が大切です。
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 「姦淫するな」。そんな解釈が神さまの御心のはずがありません。当時のユダヤ人の姿は、主イエスの目にも余るものだったに違いありません。この律法の掟、神の言葉は、単なる形式的な禁止命令ではない!心の真実、真実な愛をもって神さまと向かい合い、妻と、あるいは夫と向かい合い、異性と向かい合い、延(ひ)いては人と向かい合いなさい、と語りかけているのだ。主イエスは、かなり極端な、強烈な言葉を投げかけながら、そのように戒めておられるのでしょう。
 「姦淫するな」という掟は詰まるところ、主イエスが律法の中で最も重要と言われた、神を真実に愛することと、隣人を真実に愛することに行き着くのです。内面的な愛の真実が問われているのです。「姦淫するな」という掟にしても、人間関係において夫婦関係が最も深く愛の真実さを問われる関係だからこそ、取り上げられているのだと思います。
 キリスト教式の結婚式では、結婚する二人に必ず問いかける言葉があります。
あなたは今、○○と結婚することを神の御旨(みむね)と信じ、今から後、幸いな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、敬(うやま)い、仕(つか)えて、共に生涯を送ることを約束しますか。 二人は各々、この言葉に同意し、約束します。
 けれども、これは、絶対にできるという宣言、断言ではありません。個人差はありますが、男女が結婚する時は、“好き”という恋愛感情が強く、愛はまだ未熟です。これから二人で造り上げ、成熟させていくのです。好き、という恋の感情は、何かのきっかけでもろくも崩れます。それこそ、災いに会う時、貧しい時、病む時、そういうことがきっかけで恋愛感情は冷め、夫婦関係が壊(こわ)れることがあります。
けれども、それはまた、愛を育て深める機会にもなり得ます。自分も苦しい。でも、相手も苦しい。困難の中で、いたわりと思いやりの言葉を交わし、お互いに支え合い、赦(ゆる)し合い、受け入れ合いながら生きていく。最初から成熟した愛のあるはずがありません。努(つと)めて造り上げ、祈りながら深めていくのです。その意味で夫婦関係とは、愛を訓練し、育てる“愛のジム”にほかなりません。
 そして教会も、互いに愛し合う隣人愛という意味で、愛のジムです。教会はすべての人に開かれています。色々な人がいます。正直、感情的に“好き”な人ばかりではないでしょう。反(そ)りの合わない人、嫌いな人もいることでしょう。でも、そういう相手を否定しない。好きにならなくてもいい。でも、否定しない。その人も神さまに愛されている人として認める。受け入れる。必要な時には手を差し伸べる。対話をし、協力する。そのように愛が問われ、愛を訓練する場所という意味を教会は持っているのです。ここは、人が信仰によって愛と平和を造り上げ、共に生きる場所なのです。
 真実な愛はありますか?悔い改め、祈り、真実な愛を追い求めて進みましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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