坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「不言実行という信仰」

2023年9月17日 主日礼拝説教
聖 書 マタイによる福音書5章33~37節
説教者 山岡 創牧師

33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 37あなたがたは、『然(しか)り、然り』『否(いな)、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


   「不言実行という信仰」
 私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行(すいこう)し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓います。
 選挙で選ばれたアメリカ大統領が就任式の際に行う誓いの宣言を、テレビ等で見聞きしたことがある人もいらっしゃると思います。先の言葉は、その宣誓の言葉です。その際、大統領は右手を掲げ、左手は聖書に置いて宣言します。この形式は初代大統領ジョージ・ワシントン以来の伝統であり、慣例です。聖書に手を置いて、神に誓うのです。ちなみに、直近の就任式ではバイデン大統領が、自分の家で引き継がれてきた聖書に手を置いて就任宣言をしたそうです。この宣誓の最後に大統領はこう言います。“So help me God”。すなわち“神よ、私を助けたまえ”という祈りで誓約宣言を終えるのです。
 厳(おごそ)かな就任式です。けれども、大切なことはもちろん形式や言葉そのものではありません。その形や言葉の通りに、自分に与えられた務めを全うしようとする真実です。
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 「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」(33節)。この掟は、旧約聖書のレビ記19章12節の教えです。そこには、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚(けが)してはならない。わたしは主である」と記(しる)されています。肝心なところは「わたしの名を用いて」というところでしょう。“神の名にかけて誓う”と宣誓しながら、それが実は偽りであったり、果たせなかったりしたら、神さまの名前に泥を塗ることになるからです。
 詰まるところ、この掟は、律法(りっぽう)の中心である十戒の3番目の掟、「あなたの神、主の名をみだりに唱(とな)えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」という戒(いまし)めを基にしています。出エジプト記20章7節にあります。だから、今日の主イエスの言葉は、十戒の3番目の掟についての教えだと考えて良いでしょう。
 話は変わりますが、私はYoutubeの解説動画が好きで、歴史や地政学について解説してくれる動画もよく聞きます。それらで言われていることは、複数の民族を抱えている国では争いや分裂が起こりやすいということです。ところで、旧約聖書の民であるユダヤ人は単一民族だと考えられていますが、実は複数民族だったという説があります。えーっ!あの血筋を重んじる民族が?!と思われるでしょう。
創世記では彼らのルーツはアブラハムとされています。しかし、彼らはその後、エジプトに移住し、そこで奴隷に落とされます。やがてモーセが現れ、彼らはモーセに導かれてエジプトを脱出しますが、その際に奴隷とされていた多くの民族が一緒に脱出したと考えられるのです。ユダヤ人のことをヘブライ人と言いますが、その語源は“雑多な”という意味の言葉です。奴隷にされていた雑多な民族が脱出したのです。そして、雑多な民族が荒れ野を共に進むために、十戒と律法が、信仰と生活のルールとして与えられたのです。もしかしたら元は12部族ではなく12“民族”だったのかも知れません。
 もし違う民族同士だとしたら、お互いになかなか相手を信用、信頼することができなかったのではないでしょうか。それでけんかや争い、分裂にならないために、お互いの言葉を曲がりなりにも信用する手段が必要だったのでしょう。その手段が“誓い”でした。そして、誓いの保証(人)としてお互いが最も信頼できるものにかけて誓います。その、最も信頼できる保証が“神さま”なのです。神にかけて誓う。旧約聖書には“私がこの誓いを破ったら、主(神)が幾重(いくえ)にもわたしを罰してくださるように”という誓いの言葉が何度も出てきます。もちろん、神さまに罰され、呪(のろ)われたい人なんていませんから、この誓いは信用信頼のための最大の保証でした。
 ところが、自分の言葉を実行できない、果たせない。誓いを守れないというケースが少なからず出て来るのです。神さまに呪われる。困った。どうしよう‥‥。そうだ!神さまではなく、“神さまに近い何か”にかけて誓えばいい。そうすれば、信用信頼も得られ、もしも実行できなかった時には“誓ったのは神さまではないから”と言うことができる‥‥。そんな不誠実な誓いがなされるようになっていったのです。それが主イエスの時代には、「天にかけて」(34節)、「地にかけて」、「エルサレムにかけて」(35節)、「あなたの頭にかけて」(36節)なされていたのです。終(しま)いには、その形で最初から守るつもりのない偽りの誓いがなされる始末でした。
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 だから、主イエスは言われるのです。「一切誓いを立ててはならない」(34節)と。誓いそのものを否定しているのではありません。真実のない、偽りの誓いをやめよ、と教えておられるのです。大切なことは、誓いや言葉そのものではなく、それに責任を持つ誠実さであり真実な心です。神さまを信じる者であるならば、神さまの真実に基づき、その真実に応える信仰の真実、愛の真実が、自分の言葉や行動の土台として問われているということです。神さまはご自分の独り子イエス・キリストを、この世に遣(つか)わし、私たち人間のためにその命を犠牲にし、献(ささ)げてくださった、と聖書は語ります。そのことに神さまの真実が表わされている。ともすれば不真実な私たちに対する神の愛と赦(ゆる)しが表されている。その愛と真実を信じるのがキリスト教信仰であり、私たちはその信仰に基づいて自分の内面に、神と人に対する真実な土台を造り上げていきます。
その真実に基づいているならば、誓いの有る無しは重要ではない。自分の真実に立って、「然り、然り」「否、否」(37節)と、つまり“はい、そうです” “いいえ、違います”と偽りのない、本当の言葉を語ればいいのです。心から語っても、諸事情があって、できない時だってあります。それでいいのです。そこに嘘偽りがなければいい。言い訳や自己正当化ではなく、謝罪と祈りがあればいい。愛があれば次の機会があります。
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 現代社会において、私たちはほとんど“誓う”ということがなくなりました。キリスト教式の結婚式での誓約や、教会で牧師の就任式や役員任職式、そして洗礼式が行われる時に誓約をするぐらいではないでしょうか。逆に、数少ない、神と教会の人(会衆)にかけて誓う機会だからこそ、おろそかにしてはならないと思います。自分の内にある真実が問われます。繰り返しになりますが、誓いの有る無しは重要ではありません。大切なことは形式や表面ではなく、見えないところにある真実です。信仰と愛です。
 不言実行という格言があります。言葉にせずとも実行する誠実さです。主イエスの教えに立って言えば、私たちは不“誓い”実行する者でありたい。“真実実行”でありたい。私たちキリスト者は、自分の内に真実と愛が欠けていることを知り、自分の失敗を認めるからこそ、神の愛と赦しを祈り求めながら、真実実行の道を進むことができるのです。

 

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