坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「愛は勝つ!」

2023年9月24日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書5章38~42節
説教者 山岡 創牧師

38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41だれかが、一ミリオン行くように強(し)いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」


   「愛は勝つ!」
 キリストは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」って言ったとかいうけど、正気の沙汰(さた)じゃないわ。俺ならその場で全力で殴り返すね!あぁ、1000倍くらいにはやり返して、もう二度と舐(な)めたまねできないようにしてやる!
 ネットで今日の聖書の御言葉(みことば)を調べていたら、こんな感想が出てきました。1000倍!“倍返し”で有名な半沢直樹も真っ青の高倍率です。この人はまぁ、半分冗談か、あるいは相当な戦闘タイプの人のようです。でも、ほとんどの人には“やられたらやり返してやる”という復讐心が多かれ少なかれあるのではないでしょうか。やられたら悔しい。怒りがこみ上げてくる。傷つけられ、大切なものを奪われ、気持が納まらない。実際にやり返すかどうかはともかくとして、そんな思いが私たちの内には湧き上がります。
 しかも、“倍返し”ではありませんが、気持的には2倍にも3倍にもして、やり返し、思い知らせてやりたくなる。そのような“倍返し”の復讐心に歯止めをかけるために、「目には目を、歯には歯を」(38節)という律法(りっぽう)の掟があるのです。
 この掟は、旧約聖書の出エジプト記21章24節、他、数箇所に出てきます。主イエスの当時、この掟は、ユダヤ人の間でも、“やられたらやり返せ”という意味に捉えられていたようです。けれども、これは、そのように積極的に復讐を肯定するものではありません。むしろ、エスカレートしていく復讐心に歯止めをかけるためのものでした。2倍、3倍にして返したくなる人の心に、被害者は目をやられた同じく目まで、歯をやられたら同じく歯までに復讐を留めなさい。また加害者は、賠償責任を誤魔化(ごまか)さず、自分が相手に与えた損害と同等の賠償をし、責任を取りなさい、と言っているのです。その意味では、感情的な人の行動を抑(おさ)え、法的に社会正義を実現するための掟だと言えます。
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 けれども、主イエスの教えは、この掟本来の目的よりも更に上を行きます。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)。どうして?どういう意味?だれもが疑問に思うでしょう。相手は「悪人」です。正当な理由もなく、自分勝手な理屈や感情で、理不尽にこちらの右の頬を打って来る。不快な気持にさせ、実害を与えて来るのです。そのような相手に、感情的になってやり返すな、と言われるのならまだ分かる。けれども、やり返さないだけではなく、左の頬も向けて打たせてやれ、ってどういうことか?「下着」を取ろうとする者に、それ以上に価値のある「上着」を取らせなさい、ってどういうことか?1ミリオン、約1500m行かせようと強いられたら、その倍の2ミリオン行け、ってどういうことか?どうしてそこまでする必要があるのか?常識的に考えたら、確かに正気の沙汰ではないのです。
 ただ一つだけ言えることは、主イエスご自身がこのようにした、このように生きたということです。力がなく、弱かったから、弱者の悲しさでそのように生きざるを得なかった、ということではありません。むしろ、やられっ放しではありませんでした。“お前たちは律法を守れず、神から見捨てられている。無価値な人間で、天国には入れない”。徴税人(ちょうぜいにん)や遊女(ゆうじょ)、病人や罪人、また下層民をそのように非難し、見下(みくだ)すファリサイ派や律法学者たちに対して、主イエスは反論しました。彼らの信仰と生き方を非難しました。実力行使もしました。でも、最後には、彼らのなすがままに裁かれ、十字架にお架かりになり、左の頬どころか、上着どころか、自分の命を差し出しました。なぜ?
 十字架の上で祈られた主イエスの言葉が、その心を表しています。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。この後の43節以下にも通じますが、自分の右の頬を打つ者のために祈り、赦す。それは“愛”の究極の姿です。“神の愛”の現れです。
 今日の聖書箇所のタイトルに〈復讐してはならない〉とありました。同じ言葉が旧約聖書のレビ記19章18節にあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」。そしてその後にこう続きます。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
 神さまを誠実に愛することと、隣人を自分のように愛することが律法の中心であり、その真髄だと主イエスは言われました。その一つがここに出てきます。ですから、復讐をしないということ、左の頬を向けるということは、隣人を自分のように愛することを具体化し、徹底した生き方なのです。あるいは、愛を実践するには、それぐらいの意識でいなさいと、私たちの愛は自己本位に、言い訳をして、甘くなりがちだから、左の頬を向けるぐらいの意識でいなさい、ということなのかも知れません。それは、神さまがお造りになったこの世界に、憎しみと争いではなく、平和を実現してほしいからです。
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 隣人愛の徹底。主イエスが私たちに語りかけているのは、そのことだと思うのです。さて、私たちはこの主イエスの求めをどのように受け止めるでしょうか。現実的には理想だよ。やはりやられたらやり返す。倍返しだ!で生きるのか。復讐はしない方がいいと思う。けど、ここまでやる必要はないんじゃない?で生きるか。それとも、人を愛そうと思っても、ついつい自分の愛は自己本位で甘くなる。意識して、具体的に愛の行動を考えて生きてみよう、で生きるか。難しいけど、もしクリスチャンとして、神の愛に応えて生きようと思うなら、最後の生き方に祈りながらチャレンジしてほしいのです。できないかも知れません。でも、できるできないが重要なのではありません。大切なのは、愛が大事、必ず最後に愛は勝つ、と信じて祈りながらチャレンジすることです。
 先週の水曜日、埼玉地区伝道員会で草加教会を訪問してきました。委員5人で伺い、草加教会の方々と御言葉の分かち合いと祈り会を共にし、草加教会の伝道のコンセプトと課題を伺い、昼食を共にしました。とても有意義な、楽しい時間でした。
 分かち合いでは、5人ずつ3グループに分かれました。その際に黙想したのはヨハネの黙示録19章1~10節で、その中に「血の復讐」(2節)という言葉が出てきました。教会とクリスチャンを迫害し、殺したローマ帝国とローマ皇帝を、神さまが裁き、報復するという意味です。ここを読んで、ある方が、普段の人間関係の中で、腹の立つこと、言い返したくなることもあるけれど、自分が正しいかは分からないし、ジャッジは神さまにお任せして、復讐なんて考えず、ニュートラル(中立)の立場でいたい、と証ししてくださいました。「血の復讐」なんて、当時の教会の恨みがこもっているような気もしますが、現代人である私たちがこの御言葉を受け止めるとしたら、やはり“私”の怒りは神さまにお任せして、ニュートラルに生きる、というのは一つの答え、生き方だと思いました。忍耐が必要です。祈りが、赦しが必要です。それは愛の生き方です。
 主イエス・キリストに愛されたように、自分も愛を生きる。主イエス・キリストが十字架の死後、復活によって勝利されたように、最後に愛は勝つと信じてチャレンジする。失敗しても思い直して愛の道を歩き続ける。そこにはきっと平和の喜びが実現します。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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