坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「敵を愛せるか、敵のために祈れるか」

2023年10月1日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書5章43~48節
説教者 山岡 創牧師

◆敵を愛しなさい 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎(にく)め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報(むく)いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優(すぐ)れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「敵を愛せるか、敵のために祈れるか」
 半沢直樹。2013年に放送されたドラマで、“倍返しだ!”という言葉が人々の記憶に強く残りました。東京中央銀行の行員である半沢直樹は、西大阪支店の融資課長を務めていましたが、5億円を融資した会社が倒産し、その損失の全責任を支店長から負わされそうになります。いわゆる“トカゲのしっぽ切り”です。しかし、半沢はその処置(しょち)に納得せず、支店長とその息のかかった幹部たちに反抗し、倒産して雲隠れした会社の社長を見つけ出し、5億円を回収しようと奮闘(ふんとう)するのです。
 先週の礼拝で、直前の聖書の御言葉〈復讐してはならない〉を説教した際に、半沢直樹と倍返しという言葉を少し引き合いに出しました。実は私、2013年に放映されたこのドラマをちゃんと見たことがありません。それで当時、大反響を生んだこのドラマに興味が湧(わ)いて、レンタルして見始めました。ご覧になったことのある方はどんな感想をお持ちでしょうか?‥‥‥おもしろい。スカッとする!それが私の偽(いつわ)らざる感想です。自分の本当の目的を隠(かく)し、自分のミスを誤魔化し、自分を正当化し、責任転嫁をしようとする支店長と、その息のかかった人間を、半沢直樹が筋を通して覆(くつがえ)していく展開は、爽快(そうかい)!の一言です。力のある人間がその力で筋の通らない横暴を通し、弱い者が泣き寝入りすることに、私は納得がいかない性格です。力に屈さず、いわゆる“長いもの”には巻かれず、反発したくなる。たぶん私は本来、戦闘タイプなのだと思います。
 そのような私に、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)と言われる主イエスが求める愛はあるのか?主イエスの言葉を、私はどのように受け止めることができるのか?どのように実践することができるのか?これは私にとって、巨大な、立ちはだかる“御言葉の壁”だ、と思わずにはおられません。そして、この御言葉と向かい合う時、多かれ少なかれ、皆さんもそのように感じるのではないでしょうか。

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 旧約聖書、その律法において「隣人を愛し、敵を憎め」(43節)と命じられているといいます。それでよいのなら、話は簡単です。この掟(おきて)は、レビ記19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」から来ています。主イエスが、律法の中で最も重要な掟だと言われたものです。
 けれども、「敵を憎め」という掟は律法のどこにもなく、律法を解釈し、教える律法学者たちが書いた文献にもそのような教えは出てきません。それなのに、なぜ「敵を憎め」という教えが加えられているのでしょうか?これは推測ですが、当時のユダヤ人はローマ帝国によって支配され、国を奪われ、屈辱と苦しみを強いられていました。だから、ローマ人に対する恨み、憎しみがこのような教えを生んだのかも知れません。
 それに対して主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのです。悪意をもって自分を攻撃してくる相手は撃退したくなる。やり返さないまでも、自分を守る行動を取るでしょう。そんな「敵」と言うべき相手をどのように愛すれば良いのか。どう祈ればよいのか。普通に考えたら難(むずか)しい、無理でしょ?と思ってしまう。
主イエスはそのような“無理”を私たちに強(し)いているのでしょうか?
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 ここで「隣人」とはだれか、「敵」とはだれか、ということを少し考えてみましょう。ユダヤ人にとって「隣人」とは“ユダヤ人”のことでした。つまり宗教や文化、思想や価値、生活スタイルを同じくする民族、同胞のことでした。ですから、「敵」というのは、ユダヤ人以外の異邦人のことです。宗教や文化、思想や価値観を異(こと)にする他民族のことです。信仰的に言えば、自分たちは神さまに選ばれた祝福の民ですが、異邦人は神さまに見捨てられ、呪(のろ)われた民族なのです。だから、「敵」なのです。宗教信仰を始め、多くのものを共有する同胞は愛すべき隣人である。しかし、あらゆるものを異にし、更には自分たちを否定し、支配しようとする異邦人は憎(にく)むべき対象なのです。
 そう考えると、思い起こす主イエスのたとえ話があります。〈善いサマリア人〉です。律法の中で最も重要な掟は?という問答において、律法の専門家は、神を愛することと、隣人を愛することだと答えました。主イエスはその答えを正しいと認め、それを実行すれば(永遠の)命が得られる、と言われました。けれども、その言葉に律法の専門家は反発を感じたようです。言われなくとも私は、神を愛し、隣人を愛することを実行している。私がそれを実行していないとでも言うのか。ならば、その相手、「隣人」とは一体だれのことを言っているのか?そのように問い返す専門家に、主イエスは〈善いサマリア人〉のたとえを話されたのです。道で一人のユダヤ人が強盗に襲われ、重傷を負わされ、倒れていました。そこを通りかかった同胞のユダヤ人祭司と、同じくユダヤ人で祭司の補助をするレビ族の人は、見て見ぬふりをして行ってしまいました。ところが、3番目に来たサマリア人は、彼を手当てし、宿屋に連れて行って休ませ、宿代も払いました。ユダヤ人から見れば、彼は異邦人であり、色々と事情があって“犬猿の仲”、憎み合っている民族です。サマリア人にしても同じことです。そのサマリア人がユダヤ人を助けた。それは、「隣人」か「敵」か、同胞か異邦人か、といった区別を越えた行為にほかなりません。だから、このたとえの最後に、主イエスは専門家に問われます。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10章36節)と。それは、自分にとって隣人とはだれか?と考える自分本位な発想ではありません。そんな自分本位な区別を越えて、自分が相手の隣人になる、という相手中心の発想です。
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 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)という主イエスの言葉は、自分本位な区別を越えなさい、ということです。敵だの味方(隣人)だのとケチな色分けをするな。そういう区別は差別となり、対立となり、争いとなり、愛すべき相手を“不倶戴天(ふぐたいてん)”、共に天を戴(いただ)かざる敵にしてしまう。天の父なる神は、そんな分け隔(へだ)てはせず、等しく命に必要なものを備えてくださる。愛を注いでくださる。神さまはあなたを愛しているが、あなたが壁を作っている向う側の相手のことも神さまは愛しているのだ。その神さまの目線で、なるべく相手を見るようにしてごらん。主イエスはそのように教えておられるのだと私は受け取りました。
 省みて、私もケチな分け隔てをしている人間だと思います。ある説教者が、分け隔てをしているその心には、神はいない、と書いておられました。ガーンと来ました。
相手を感情的に好きにはなれないかも知れない。父なる神さまのように、主イエスのように、完全にはなれない。けれども、この人も神さまが愛しておられる神の子なのだと見るように努力をしよう。相手の必要に手を差し伸べる努力をしよう。相手のために祈る努力をしよう。そのようにして主イエスと同じ方向を向き、同じ道に立とう。自分を悔(く)い改(あらた)めながら進もう。それが私たちの「完全」(48節)なのだと思います。

 

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