坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「だれも見ていなくても」

2023年10月8日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書6章1~6節
説教者 山岡 創牧師

◆施(ほどこ)しをするときには 1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報(むく)いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既(すで)に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠(かく)れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」◆祈るときには5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
「だれも見ていなくても」
 ないっ!‥‥恥ずかしながら、私はよく物を置き忘れたり、落としたりして無くすことがあります。先日も散策に行った帰り、スポーツ用のキャップを電車に置き忘れてきました。古い帽子ぐらいならいいのですが、とんでもないものを落とすことがあります。 
ある時、財布や免許証、銀行カード、通帳等が入ったバッグを落としたことがありました。ないっ!自動車の中にも、行った先のお店にも、どこにもない。警察にも連絡しましたが届いていないとのこと。真っ青になって、すぐに銀行に連絡し、口座を停止してもらいました。半日ほど落ち着かない気持で過ごしていましたが、夕方、交番からバッグが届けられていますと電話がかかって来ました。ホッと胸をなでおろして交番に行き、受け取りました。何でも教会のすぐそばの橋の上に落ちていたとのこと。たぶん車のボディの上にバッグを乗せたまま気づかずに走り出してしまったのだと思います。バッグの中身を確認しましたが、無くなっているものはありませんでした。しかも、拾ってくださった方は名前や連絡先も明かさず、お礼も要らないとのことでした。
 日本って、良い国だと思います。多くの場合、落としたものが戻って来ます。拾ったところをだれかが見ているわけでもないかも知れない。足のつくものはともかく、現金を取ってバッグは捨てても、だれにも分かりません。でも、正直に拾ったものを交番に届ける人が大半です。しかも、持ち主から感謝やお礼という「報い」を求めないことも多い。そういう正直な日本人の内面性と「善行」はどのように育まれ、何に基づいてなされているのでしょうか。いずれにせよ、これからも続いてほしいと思います。
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 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1節)。主イエスは、ユダヤ人の「善行」について、このように注意されました。6章1節から18節まで3つの「善行」について同じ注意が続きます。それは、施し、祈り、断食についてです。施しは、社会的、経済的に弱い立場にある人を支援する愛の行為でした。祈りは神に対する信仰の現われでした。断食は、私たちにとって分かりにくい行動ですが、それは感謝だったり、悔い改めだったり、神さまへの敬虔(けいけん)さを表わす行動でした。このような「善行」が、律法の義務として以上に、宗教的に意義のある行動として奨励(しょうれい)されていました。
 けれども、その善行を、少なからぬユダヤ人が、「会堂や街角」(2節)という人目の多い場所で、あるいは「ラッパを吹きならす」(2節)かのように注目を集める方法で行っていたようです。それは「人からほめられようと」(2節)しての行動でした。主イエスはそのような行動を、「偽善者」(2節)の行為だと非難し、注意されたのです。周(まわ)りの人からほめられようとして、社会的評価を得ようとする動機で行う善行は偽善であり、浅ましい心の現れなのです。
 けれども、他人事ではないなぁ、と思います。私の中にも、何か良いことをしたり、結果を残したりした時、周りの人に見てもらい、気づいてもらって、ほめられたい、評価されたいという気持がどこかにあります。おそらく皆さんの中にも、多かれ少なかれ、そのような気持はあるのではないでしょうか。
 もちろん、自分の行いが人からほめられたり、評価されたとしても、法を破るわけでも、社会に反するわけでもなく、まただれかに迷惑をかけるわけでもありません。要は、自分自身の“心”の問題です。信仰的に言うならば、「隠れたことを見ておられる」(4節)神さまとの関係性の問題なのです。それは私たちにとって大切な行動基準です。
 主イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)と、つまり、自分の善行を「人目につかせない」(4節)ようにしなさいと言われました。それは、父なる神からの、形のない、この世のものではない報いを、心の喜びとして受けるためです。人からの報いを受けるならば、神さまからの報いが受けられなくなるからです。
 けれども、何であれ人目につかなければ良いかと言えば、必ずしもそうではありません。例えば、よくあるケースとしては、電車の中で私たちは、席を譲(ゆず)った方がいいかな、と思う相手に座席を譲ることがあります。それは当然、周りの人に見られています。中には、あの人、いい人だなぁ、と思う人もいるでしょう。そうだとしたら、私たちは座席を譲らない方が良いのでしょうか?‥‥そういうことではないはずです。いい人だなぁ、と周りから思われることを狙(ねら)ってするなら、それは偽善ですが、愛と善意からするのであれば、たとえ周りの人に見られていようと、いい人だと思われようと、それは父なる神さまが喜ばれる「善行」だと思います。
 大切なことは、神さまが見ておられる「隠れたこと」(4節)です。つまり、心の中です。その動機であり、目的です。神を愛することと隣人を自分のように愛することが、律法において、聖書において最も重要な事柄だと主イエスは言われました。だから、神の愛を受け止めて、神の愛に包まれて、隣人を愛する愛の動機で、神さまに喜ばれようと思って行うならば、人が見ていようと見ていまいと、それは主イエスの教えに沿っていると思うのです。
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 ただし、私たちの心は100%、愛と善意で満ちているとは言えません。どこかに自分本位な偽善や欲望がありますから、自己満足せず、いつも自分を省みる謙虚さが必要ではないでしょうか。自分の心の奥底は自分でも分からないことがある。「隠れたこと」は神さまにしか分からないという場合があり得るからです。
 こんな話があります。海外のキリスト教精神で経営されている病院に入院している患者が、まだ治っていないのに、国立病院に転院しました。友人たちはいぶかしんで、看護師であるシスターたちは本当に親切にあなたの看護のお世話をしているのに、どうして転院したのか?と尋ねました。すると、その人は、確かにシスターたちはよく世話をしてくれる。しかし、彼女たちは私を大切にしているのではなく、彼女たちが天国に宝を蓄えて報いを受けるために、看護してくれているのだ。私は、彼女たちが天国に行くための梯子(はしご)にはなりたくない‥‥‥そう答えたということです。
 この患者の方が考えすぎて、うがった見方をしているのかも知れません。けれども、たとえそうだとしても、私たちがもし看護師と同じような立場に置かれたとしたら、この人の言葉を否定するのではなく、もしかしたらそういう思いが自分の心の中にあるのかも知れない、と自分を謙虚(けんきょ)に省(かえり)みるきっかけにできたらいいなぁ、と思うのです。
 私たちの心は愛と善意ばかりではありません。悪意や妬(ねた)み、自分本位な欲望などがあるでしょう。自分でも気づかず「隠れたこと」としてあるかも知れない。神さまはそのような私たちの心をご存じで、責(せ)めるのではなく、大きく包んでくださいます。だからこそ、神の愛のもとで、悔(く)い改(あらた)めることを忘れず、赦(ゆる)されながら歩みたいと思うのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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