坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神が求める祈り」

2023年10月15日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書6章7~15節
説教者 山岡 創牧師

7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名(みな)が崇(あが)められますように。10御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が行われますように、/天におけるように地の上にも。11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。12わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
「神が求める祈り」
 ハレルヤ!、祈りとはまず、ハレルヤ!と神を崇め、賛美することである。そう教えてくださったのは、鈴木崇巨(たかひろ)牧師でした。2018年度の研修会に、私たちの教会は鈴木先生をお迎えし、〈聖書が教える祈りの基本〉というテーマで学びました。その際、鈴木先生のお話で中心とも言うべきこと、そして私の胸に最も強く印象に残ったのが、祈りとはハレルヤと神をあがめ、賛美することである、ということでした。
 皆さんは、ご自分の祈りを客観的に考えてみたことがあるでしょうか?自分は普段どんな祈りをしているだろうか?そう考えてみると、お願いの祈りが8割方、ほとんどであるという人もいるかも知れません。そのことに気づいて、できるだけ多くの感謝を祈るようになった方もおられるでしょう。かく言う私もその一人です。けれども、私は、ハレルヤと神をあがめ、賛美する祈りは、意識してしたことが、この研修の時までほとんどありませんでした。
 もちろん、お願いの祈りをしてはいけないと言うのではなく、感謝の祈りが不十分な祈りだということでもないと思います。けれども、祈りの基本はまず神を賛美して、神を主と崇めて始めることである。鈴木先生はそのように教えてくださったのです。
例えば、私たちは“今日の一日、今日の命を感謝します”と祈ることがあります。それが悪いと言うのではありません。敢(あ)えて言うならば、それは自分が主体に、主語になっている祈りです。その感謝を、神さまを主体にして祈るとこうなります。“今日の一日、今日の命を備(そな)えてくださった神さま(の御名)があがめられますように”。つまり、“私が”ではなく、“神さまが”という祈りになるのです。神が主である祈りです。その神さまが崇められますように、と祈る。それが賛美の祈り、ハレルヤの祈りです。
あまり意識して考えすぎると、自然に祈れなくなりますので、神さまを主語にする言葉にそこまでこだわらなくて良いと思います。ただ、祈りの基本はまず神さまを賛美することだということを心のどこかで覚えていてください。そして、もし自分の祈りに言葉として加えたいと思われるなら、神さまに呼びかけた後、“ハレルヤ、主の御名があがめられますように”と祈ってから、感謝や願いの祈りをなさったらよいと思います。
私もこの時まで、祈りの中で“ハレルヤ”という言葉を使ったことがなかったので、最初は何かとても気恥ずかしいような気持でした。けれども、意識して、気恥ずかしさを我慢して、ハレルヤと祈っている内に、やがてそれが自然になりました。鈴木崇巨先生の研修を受けてから、この教会では、ハレルヤと賛美の祈りをなさる方が明らかに増えました。賛美が祈りの基本として定着してきました。
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 祈りの基本は賛美である。そのことを教えているのが、主イエスが弟子たちに、そして私たちに教えてくださった〈主の祈り〉です。その最初の祈りとして、「御名があがめられますように」(9節)とあるからです。今日は、この最初の祈りに集中してお話したいと思います。
 「御名が崇められますように」。“名は体を表わす”という言葉がありますが、つまりこれは“神さまが”崇められますように、という祈りです。ハレルヤと神さまを賛美するのです。神さまを主と崇めるのです。ちなみに、ハレルヤとはヘブライ語で“主を賛美せよ”という意味です。
 とは言え、神さまを賛美するとは、どうすることでしょうか?私たちがどのような態度を取り、どんな生活をすることでしょうか?ただ、ハレルヤ!と唱(とな)えてさえいれば、それで良いとは言えません。神さまを崇め、賛美する生き方というものがあるはずです。
 「崇められますように」という言葉の元来の意味は“大きくする”ということだと聞いたことがあります。神さまを大きくする、ということです。逆に言えば、私たちが神さまの前で小さくなる、ということです。それはどのように生きることでしょうか?そのことを考えるヒントになるのが直前の7、8節の御言葉(みことば)です。
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 「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(7節)。異邦人の宗教は多神教です。神さまがたくさんいます。だから、まず自分が知る限りの神さまの名前を呼ぶのです。一人でも落としたら、祈りが聞かれないと考えていたということです。
 とは言え、ユダヤ人も他人のことは言えなかったようです。ユダヤ教は一神教ですが、ユダヤ人が日に3度祈る〈シェモネ・エスレー〉という祈りでは、“主よ、‥‥私たちの神、私たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、恐るべき神、いと高き神、天と地との創造者‥‥”と、一人の神の名を何度も呼びかけたようです。そのように、くどくどと神の名を呼び、くどくどと願い事を言う。言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいたからだと主イエスは批判されます。
 そんなふうにくどくどと祈らなくていい。なぜなら、「あなたがたの父は、願う前からあなたがたの必要をご存じなのだ」(8節)と主イエスは教えられました。そして、「だから、こう祈りなさい」(8節)と教えてくださったのが〈主の祈り〉です。神さまが私たちに求める祈りです。その祈りの基本が、神さまを主と崇める祈りなのです。
 くどくどと祈る祈りとは、要するに自分が主となっている祈りであり、自分本位な態度です。だから、ああしてほしい、こうしてほしい、という祈りばかりになるのです。そして、その願いが叶(かな)えられないと、ともすれば、神さまなんていないと疑い、信じたって意味がないと考えるようになってしまう。信仰を捨ててしまう。神さまを主とし、自分は“従”となる神さま主体の祈りを、神中心の在(あ)り方を知らないからです。
 そういう祈り、そういう態度ではなく、主イエスは、神さまはあなたがたの必要をご存じで、あなたがたの「隠(かく)れたこと」(6節)までもご存じなのだ。そういうお方に“よろしくお願いします”と全面的に自分をおゆだねする。おゆだねしたら、どんなことも“私の必要”として神さまが与えてくださったことと信頼して生活する。そして、神さまを主として、神さまは自分に何を語(かた)りかけ、何を求めておられるのか?と、その言葉に耳を傾け、受け止める。時にはその御言葉と葛藤(かっとう)しながらも、「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1章38節)と祈り、“神さま、従(したが)います”という生き方をしようと主イエスは呼びかけているのです。
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神の言葉に耳を傾け、その言葉を受け取った旨(むね)を祈りによって応(こた)え、聞き従う生き方に努(つと)める。できない時だってあります。でも、自分を正当化せず、責任転嫁をせず、悔い改めることを忘れず、祈りながら生きる。それが、御名を崇める祈り、神を大きくする祈りの実質なのです。ハレルヤ!、御名が崇められますように。

 

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