坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神を父と呼ぶ」

2023年10月22日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名(みな)が崇(あが)められますように。10御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が行われますように、/天におけるように地の上にも。11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。12わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』
「神を父と呼ぶ」
 “私には二人の父がいる。金持ちの父と貧乏な父だ‥‥”。そう言ってロバート・キヨサキは語り始めます。一人は、高学歴で安定した職業に就いているが貧乏な父親。もう一人は、高校さえ中退して卒業していないが金持ちの父親。自分は子どもの頃、この二人の父親から人生の教育を受けた。どちらの教えが正しいのか分からなかった。ただ、こんなにも考え方が違うのかと不思議に思っていた。でも、高校生になった頃には、どちらの父に倣って生きるか決めていた。それは金持ち父さんの方だ‥‥。
 私が今、読んでいる『金持ち父さん、貧乏父さん』(筑摩書房)という本は、こんな書き出しで始まります。二人の父親がいるってどういうことだろう?まだ子どもだから義理の父親でもないし‥‥。不思議に思いましたが、読み進んでいくと、それは実の父親と、親友の父親のことだと分かりました。著者は、親友の父親の教えに従って生きていきます。そして彼は、この本でその父親の教えと自分の生き方を紹介するのです。
 友だちの父さんを、自分の父さんと呼ぶ。たぶん“人生の父”といった意味でそう呼んでいるのでしょう。それはキリスト教信仰の感覚と似ています。クリスチャンである私たちにも父親が二人います。一人はもちろん実の父、そしてもう一人は、主イエス・キリストが“父”と呼んだ天の父、父なる神です。ロバート・キヨサキは、実の父ではない父に人生の教えを学びましたが、私たちも実の父親以上に、天の父の影響を受け、導かれ、支えられながら生きているかも知れません。その意味で神さまとは私たちにとって人生の父であり、内なる“魂(たましい)の父”であると言うことができるでしょう。
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 「天におられる私たちの父よ」(9節)。主イエスは〈主の祈り〉の最初の呼びかけで、天の神さまを「父」と呼びました。先週の説教でお話したように、ユダヤ人は当時、祈りにおいて唯一の神の名を、何度も言い換えて「くどくどと」(7節)呼びかけていました。主イエスは、その長い呼びかけに異を唱え、ただ一言、「天におられる私たちの父よ」と呼び、私たちにもそのように神に呼びかけよ、と教えられたのです。
 主イエスは、天の神を「アッバ」(マルコ14章36節)と呼びました。これは、ユダヤ人が日常語として話していたアラム語で、幼い子どもが父親を呼ぶ呼び方です。英語で言えば“ダディ”、日本語に訳せば“お父ちゃん”といったところでしょうか。「願う前から」自分に「必要なものをご存じ」(8節)の父親に対する全面的な信頼とほのぼのとした親しみが込められています。
 けれども、それだけではありません。アッバ、父よ、という呼びかけは、もう一段深まります。子どもはやがて成長し、思春期を迎え、親に反抗するようになります。今までは無条件で、全幅の信頼を寄せていた父親に反発し、乗り越え、自立していくための、必要な成長過程です。そのような反抗期を、ある意味で健やかに経験し、大切な何かを発見すると、人として成長し、親子関係は深まり、再び落ち着きます。
 信仰にも、父なる神に対する、言わば“反抗期”と言うべき時期があるように思います。そのことを表しているのが主イエスの語った〈放蕩(ほうとう)息子〉のたとえにおける弟息子の姿でしょう。ある父親に二人の息子がいました。その弟の方が、父親のもとを離れるべく財産の生前贈与を求めます。父親は怒(おこ)りもせず、とがめもせずに息子の要求通りにします。どうしてでしょうか?それは、反抗期の息子に忍耐し、自分で気づくまで待つ決心をされたのだと思います。うまく行ったと思っている息子は財産をお金に換えて、早速遠い地に旅立ちます。そこで自分のやりたい放題、放蕩の日々を過ごすのです。
 けれども、やがて金が底をつきます。金の切れ目が縁の切れ目、取り巻きは離れていき、仕事のない彼は食べることにも窮(きゅう)し始めます。そこで彼は当てがわれた豚の世話をします。それはユダヤ人が決してしない、汚れた仕事でした。それでも彼は豚のえさを食べたいと思うほどに飢(う)えていました。きっと父の家での暮らしを思ったことでしょう。
 そんな失敗と挫折(ざせつ)、みじめさと苦悩の中で、弟息子は我に返ったといいます。人生の間違った道を歩んだことに気づき、父の家に帰ろうと思い立ちます。けれども、ただで帰れるわけがありません。彼は、もはや息子ではなく、雇い人として遇してくださいと父親に頼もうと考えます。
 一方、父親は来る日も来る日も、息子の帰りを待っていたのでしょう。遠くに息子の姿が見えるや、自分から走り寄って抱きしめます。そして、息子が“雇(やと)い人に‥”と言う前に、いちばん良い服を着せ、パーティーの準備を召使いたちに命じ、“さあ、お祝いだ。いなくなっていた息子が帰って来たのだから”と、この弟息子を迎え入れるのです。“貴様、どの面下げて帰って来た?もう我が家の敷居(しきい)はまたがせないぞ!”そのように怒鳴(どな)られても不思議ではありません。息子もそれを覚悟していたでしょう。ところが、怒られもとがめられもせず、以前のように“愛する息子”として受け入れられたのです。
 いや、以前と同じではありません。離反という出来事、挫折の苦しみと赦しを味わって、再び息子として「父」と呼べる関係に戻って来たのです。よく“1周回って元に戻る”という表現をすることがあります。親子の全面的な、最初の信頼関係は言わばスタート地点、時計で言えば12時です。それが、疑い、反発し、離れて行き、関係を断って生きている状態が半周回った反対側、6時です。そして、そのように生きている中で、何かきっかけがあり、自分を見つめ直し、自分の誤りや頑(かたく)なさに気づき、歩み寄り、和解して、再び信頼関係を回復するのが、1周回って元の位置に戻ったということです。
 けれども、元に戻ったと言っても、その信頼関係の中味は以前とは全く違います。それは反抗と悔(く)い改(あらた)めを経て、赦(ゆる)しと喜びを味わった上での信頼関係の回復です。だから、その関係は以前よりも、より深く、より強固なものになっています。「父」と呼ぶのは同じでも、その言葉に込められているものは、無邪気な親しみだけではなく、和解の喜び、愛と尊敬が加えられ、深く成長しているのです。
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 信仰という“私と神さま”の関係もそうではないでしょうか。主イエスは、信じる私たちにも、神さまを「父」と呼んでよい、と教えてくださいました。とは言え、中には実の父親との関係が思わしくなく、その影響で、神さまを「父」と呼ぶことに抵抗がある人もおられるでしょう。それならば、必ずしも「父」と呼ばなくてもよいと思います。主イエスが「父」と呼ぶことで表している、神の言い尽(つく)くせない愛と赦しを、私たちに対する信頼を汲(く)み取っていれば、それで信仰の土台は成り立っています。
私たちと神さまとの関係は1周どころか、5回も10回も、疑い、迷い、反発し、離れることを繰り返すのかも知れません。けれども、その度に5周し、10周して、繰り返し神さまのもとに立ち帰ることで、信仰は深まり、強くなります。愛と喜びに満たされ、人として成長していきます。それが、神を「父」と呼ぶ信仰の歩みです。

 

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