坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神の愛は希望を生み出す」

2023年10月29日(日・主日)坂戸いずみ教会礼拝説教        
聖 書 ローマの信徒への手紙5章1~11節
説教者 疋田 義也牧師(本庄教会)

1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊(せいれい)によって、神の愛がわたしたちの心に注(そそ)がれているからです。 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子(みこ)の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


「神の愛は希望を生み出す」             

1.挨拶、5章3節から5節までを取り上げます
今日は、皆様とご一緒に礼拝をおささげできる恵みに感謝いたします。夏季休暇をお取りになられた山岡先生ご夫妻の休暇のひと時が守り、祝福されますようお祈りいたします。
 説教は12分程でということでしたので、今日はローマの信徒への手紙の5章の11節までを読んでいただきましたが、その中でも特に3節から5節までを取り上げて、共に御言葉(みことば)の恵みをいただきたいと思います。
2.「逆なのではないか?」、それは天の父なる神様に頼ることを示すため
この5章3節から5節まで、特に3節から4節は、初めて読んだ時、「少し違和感がある。」…という方が多いかもしれません。
 「わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
 「苦難から、忍耐、練達、そして希望へ」という順番、私はどうしても、この順番が逆なのではないかと、いつも感じていました。
 何事にも動じない「希望があるからこそ」、練達があるのであって(ちなみにこの「練達」とは少し難しい言葉ですが、「熟練している」という意味で「洗練されている」という意味に近いと思います)、その練達があるからこそ、忍耐力を生み、苦難を耐え忍ぶことができるのだ…と、その様に受け取った方が、分かりやすいように感じていました。 
もし、この聖句が慣れ親しんだ暗唱聖句で、昔から大好きな聖句だった…といことであれば、「そうだ。そうだ。」と、ストンと胸に落ちるのだと思いますが…もしその様な方が「いた」としたら、そのように納得できる体験があったのではないでしょうか。神様アーメン、その通りです…という気付きが与えられるような出来事が、まず初めに「あった」のではないかと思います。

なぜその様なことをお伝えするかといいますのと。実は、この「苦難、忍耐、練達、そして希望」という順番は、あえて逆に語られているのです。それは、まず「苦難の体験」が私たちに、神様を「頼るように」と私たちに促(うなが)すからです。私たちを愛し、祝福して大切な命を与えて下さった神様。その私たちを神様に背(そむ)かせる罪から救い出す為に、大切な神の子イエス様を、この地上にお遣(つか)わし下さった…愛に溢(あふ)れた神様。その神様に、信頼することによってこそ、私たちは忍耐する力が与えられ、私たちの信仰の歩みは洗練されて、そして希望をもって再びイエス様が私たちを迎えて天国へと招きいれてくださる時を待つことができるのです。
その証拠として、大切な御子(みこ)イエス様が、まず、誰よりも先に、苦難の道を歩んでくださいました。受難の道を歩んでくださいました。狭き門を通ってくださいました。十字架の道を通して、愛に溢れた、天の父なる神様に完全に頼ること、全て委(ゆだ)ねること、そして死を遂(と)げた後も、復活させてくださることを信じること、この命の道を歩みとしてくださったのです。そして、主イエス様は私たちにも、同じ道を歩みなさい…と私たちに主に信頼する、「命の道」を指し示してくださっているのです。
3.カーナビの譬
ここで少し、車の運転の話をさせていただきます。私の父も、そして私も、現在車を日常的に運転しているのですが、いつも一つ論争になることがあります。それは、「カーナビの案内は必要か?」ということです。もっと厳密にいうと、「カーナビの案内に完全に、従う必要はあるのか?」ということです。
父は、現在牧師をしている本庄から大宮へと、病院通いなどで100km以上運転しています。運転慣れしているのです。そこで、自分の好きな道もあるし、それ以外の道をカーナビに示されると、「いつもの道が良いのだ」と必ずしも従いません。見知らぬ土地に行った時だけ、カーナビの案内に従っています。カーナビに目的地を入れる理由は、所用時間を確かめる為だ…とそのように父は、いつも言っています。
これに対して、私は、どんな時も、近場でも、まずはカーナビに目的地を入力します。すると、所用時間も示してくれますし、最適な道順も教えてくれます。私はどちらかというと、土地勘がないので、カーナビに頼った方がいいのです。
ある時、家族で母の実家である青森県に帰省(きせい)しました。その際に、父と私が同じ車に乗り合わせたのです。私が運転する時は、もちろんカーナビを入れますし、父も青森での運転の経験はありますが、「一応」カーナビを入れました。
すると、旅行中に入口の分かりにくい地下駐車場がありました。中央分離帯のある大通りの真ん中に、降っていく入口があるのですが、片方の車線からしか入れず、片方の車線からしか出られない、そのような地下駐車場でした。周辺の道には一方通行も多く、父は道に迷ってしまい、ぐるぐると同じところを行き来してしまいました。挙句(あげく)の果てには、「出口」となっている一方通行の道を指して「あそこから入れるかな」などと言うので、私は慌(あわ)てて「そこはだめだよ」と大声が出てしまったほどです。それから私が運転を代わり、カーナビの案内通りに行くと、ちゃんと「入口」の一方通行の道から、駐車場に入れたのです。その時、私はとても得意げに「ほら、だから常日頃からカーナビは信頼した方がいいんだよ」と言いました。すると、父は不機嫌になってしまいましたが、「いや、わたしは、普段からカーナビを信頼しているよ。」と返してきたのです。私は父が意地を張っているのだと思っていました。
ところがある時、私はハッとさせるような体験をしました。それは、私が本庄から大宮まで17号線という道を真っすぐに走っていた時です。いつもでしたら、17号線をただひたすら熊谷バイパスまで真っすぐに走るのですが、ある時、交差点に差し掛かる30~40kmぐらい手前でしょうか。「ポン」とカーナビが鳴って、「新しいルートでご案内します」と言ってきたのです。
地図では「次の交差点で左折」となっていました。私は既に、直線レーンを突き進んでいて、到底曲がれませんでした。初めて「カーナビの案内」を無視してしまったのです。すると「どうしよう無視してしまった!」と一瞬、焦ってしまい、運転に集中できなくなってしまいました。後から考えると、元々のルートに渋滞や工事があって、良かれと思ってカーナビが代替の道順を示したのだと思います。ただ、そのまま行ってもちゃんとたどりつけるハズなのです。
「どこかでUターンした方がよいだろうか」と思ったほどです…すると「ポン」とカーナビが再び鳴って、ちゃんと次の道順を示してくれたのです。その時、私は「ハッ」とさせられました。もしかしたら、私はカーナビを信頼しきれていなかったかもしれない。「私たちがどの道を選んでも、ちゃんと次の道を示してくれた。」私がどんなに道を間違えても、最善の道を示してくれる、これがカーナビだということを教えられたのです。その時に、父が「カーナビを信頼している」ということの意味も少し理解できたと思います。自分が完璧に従えているから、信頼している…ということではないのだということ、そしてどんな時にも、「困った時に」頼れるのがカーナビなのです。
4.試練の時に、傍にいてくださるイエス様
カーナビの話になってしまいましたが、これは神様と私たちの関係にも通じてくる面があると思います。「困った時の神頼み…ではいけない」ということもよく言われます。それもその通りかもしれませんが、むしろ窮地(きゅうち)にあっても、なお「私の信仰は完璧だ」と思ってしまうことほど、危ないことはないのです。時として、それは自分の行いの誤りを認めることができない、それ故に自分を正当化しようとして、さらに攻撃的になったり、怒りに燃えたりと…今、世界に目を向けると、憎しみや争いが激しく渦巻いています。それらは、神様の前に自分の誤りを認められない、そのような私たち人間の罪の姿、そのものなのです。詩編46編の言葉は私たちに語ります。
「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」と、愛と真実をもって天地万物の全てを治めて、そして養い、導いてくださっている神様を知らされて、私たちは自分の肉体の限界をしり、弱さを知らされます。「それほど自分は強くありません…」と告白する時にこそ、傍(そば)にいてくださる神様の愛を身に染みて感じるのではないでしょうか。むしろ、神様のことをいつも頼っていいのです。そして、行き詰まった時こそ、神様に頼るべきなのです。

私たちは人生の岐路(きろ)にあって選択を迫られるときがあります。小さなものでも、大きなものでも、私たちは「あの選択が正しかったのだろうか。もしかしたら…間違っていたのではないか」と自分を責めてしまうことさえあります。しかし…先ほどのカーナビの例で言えば、「曲がってもいいし、曲がらなくてもいいのです。」従える時もあれば、どうしても従えない時もある。そこでなによりも、一番大切なのは、そこには共に、憐れみ深い神様がおられる。神共にいたもうイエス様が共におられる…ということに信頼することです。イエス様は既に天に昇られて、目で見える形ではおられません。しかし、聖霊なる神様が天におられるイエス様に出会わせてくださいます。二人、または三人が共に祈る、この教会の交わりの中にも確かに生きて働いてくださいます。「まがっても、まがらなくてもいいんです。」また、私たちの人生の中では、立ち止まる時もあっていいのです(交差点の中で立ち止まるのは良くありませんが…)。確かに「居直って」神様を無視することは、神様を悲しませることに他なりません。しかし、カーナビは単なる機械ですが、神様は私たちを人格的に愛し、私たちが間違えている時は、愛をもって、正しい道へ、神様の方へと引き戻してくださいます。この「信仰の確信は」私たち自身の力に依り頼んでいるのではなくて、神様の愛に頼ることであり、イエス様が引き受けてくださった十字架の苦しみの恵みに頼り、復活の喜びに依り頼むものです。これらの主イエス様の救いのみ業によって、信じて歩む私たちの道は、確かに神の国、天国へと繋(つな)がっています。
慈しみ深い天の父なる神様を信じて、従って歩む、信仰の道は、簡単なものではないかもしれません、それこそ苦しみも伴います。しかし、わたしたちが「苦難を誇りとする」と言う時、そこで私たちが誇っているのは、私たち自身ではないのです。苦難の中で私たちを執(と)り成し、私たちの背きさえも覆(おお)ってくださる、御子イエス様を誇っているのです。そして、イエス様を遣わしてくださった天の父なる神様を誇り、恵みのご支配である、神の国が来ますように…との祈りに私たちを至らせるのです。

 

 

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