坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「地上の体、天上の体」

2023年11月5日 主日礼拝(召天者記念礼拝)説教 
聖 書 コリントの信徒への手紙(Ⅰ)15章35~49節
説教者 山岡 創牧師

35しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 36愚かな人だ。あなたが蒔(ま)くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 37あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 38神は、御心(みこころ)のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 40また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異(こと)なっています。 41太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
42死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、 43蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 44つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 45「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 46最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 49わたしたちは、土からできたその人の似姿(にすがた)となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

「地上の体、天上の体」
 プロテスタント・キリスト教では11月の第1日曜日を〈聖徒(せいと)の日〉と呼んで、亡くなった人を偲(しの)び、記念する礼拝(れいはい)を守ります。気づいた方もいると思いますが、昨年度までは〈永眠者記念礼拝〉と呼んでいたこの礼拝を〈召天(しょうてん)者記念礼拝〉という名称に変えました。内容が変わったわけではありません。ただ、聖書的に、信仰的に、以前から疑問に感じていたことを改めて役員会で協議して、この名称に変えました。
なぜかと言えば、聖書の中には確かに、人間の死を“眠り”と表現している言葉があります。けれども、イエス・キリストが天からおいでになり、神の国が完成する時、眠っている人たちは起こされ、呼び出されて、キリストの裁きを受け、神の国に入れられるのです。その意味では、眠ると言っても永遠に死の眠りにつくわけではありません。それで、〈永眠者〉という表現は違うのでは、と考えたわけです。
 ちなみに、聖書には、死後の世界、死後、私たちがどのようになるのかということについて、二つの考え方があります。一つは、今、お話したように神の国が完成するまで眠っている待機状態。そしてもう一つは、死後、すぐに天国に召され、迎え入れられるという信仰です。現代のキリスト教では、後者の信仰が主流だと言ってよいでしょう。そのような影響もあって、キリスト教信仰をお持ちでない方でも“天国”という考えをごく自然にお持ちの方が多いのだと思われます。
 人は、死して亡くなると、天国に召され、迎え入れられ、天の命、永遠の命を生きる者となる。その信仰から、この礼拝の名称を〈召天者記念礼拝〉と変更した次第です。
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 さて、今日は〈キリストの復活〉のことが記(しる)されているコリントの信徒への手紙(一)15章の一部を読みました。当時、地中海周辺世界において大都市の一つであったコリントに、ユダヤ人クリスチャンであったパウロが伝道し、教会が生まれました。
 とは言え、パウロはコリント教会に留まらず、多くの町を巡って、イエス・キリストの救いを宣(の)べ伝えていました。だから、コリント教会で信仰上の問題が起こっても、そこにパウロがいるわけではありません。それで、コリント教会の長老たちとパウロはしばしば手紙のやり取りをしたのです。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。今日読んだ聖書箇所の直前の15章12節で、パウロはそのように問いかけています。コリント教会には、死者の復活を信じない人々がいたのです。
 死者の復活とはどういうことでしょうか?もしそれが“生き返って”、それまでと同じように地上の世界を生きるという意味であるならば、私たちだって信じられないのではないでしょうか。けれども、死者の復活とはそういうことではありません。
 イエス・キリストの復活を考えてみれば、そのことは明らかです。15章の冒頭にもパウロが書き記しているように、キリストは私たちの罪のために十字架に架(か)けられ、死なれました。そして、死者として墓に葬(ほうむ)られましたが、三日目に復活され、12弟子をはじめ多くの人々に、そしてパウロにも「現れた」(5節他)といいます。
 けれども、弟子たちに現れ、再起させ、もう一度使命を託(たく)された後で、そのまま死ぬまで生きた、ということではないのです。キリストは弟子たちに40日間現われて、その後、彼らの前で天に昇られたと使徒言行録1章には記されています。だから、死者の復活とは単純に“生き返る”ということではありません。たぶんコリント教会の中で死者の復活を信じないという人々は、そのように誤解をしていたのでしょう。
 復活した人は天に昇るのです。天国に召され、迎え入れられるのです。天国で天上の命を、永遠の命を生きるのです。死は“自分”という存在が滅んで終わることではありません。地上の命は天上の命へと昇華(しょうか)し、続きます。それを信じるからこそ、地上の私たちには、不安と悲しみの中にも慰めと希望が生まれ、生きる支えとなるのです。
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 ところで、今日の聖書箇所では、復活した時の“体”が問題となっています。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかも知れません」(35節)。当時、地中海周辺世界に広がっていたギリシア思想では、霊肉二元論と言って、肉の体は価値のない、劣ったものであり、その体から霊が解放されることに大きな意義があると考えられていました。けれども、ユダヤ教から派生したキリスト教の信仰では、霊だけでは意味がない、神の国、天国に入る時に霊と肉が揃(そろ)って一つでなければ、つまり「体」がなければならないと考えられていました。「どんな体で来るのか」という問いに対して、パウロは、「地上の体」があるように、「天上の体」(40節)がある。「自然の命の体」があり、そして「霊の体」(46節)があるのだと答えています。
 私はある時まで、人は死んだ後で、“霊”があり、そこに“自分”という自我(じが)の意識が伴っているなら、“体”はなくても別にいいのではないか、と考えていました。けれども、ある映画を観て、その考えが変わりました。それは〈ゴースト ~ ニューヨークの幻〉という映画です。1990年に放映された作品で、暴漢に襲われ、殺された男性が、幽霊となって恋人を守る姿を描いて、世界的な大ヒットを記録した映画です。
 この映画の終盤で、女性は、自分の恋人が幽霊となって自分のそばにいて守ってくれていたことに気づきます。そして、恋人の霊の姿が見えるようになります。二人は感極まってお互いに抱きしめ合おうとします。けれども、幽霊であるためにお互いに触れ合うことができません。けれども、その二人を見かねて、幽霊の男性を助けて来た霊媒師が“私の体を貸すよ”と言って、男性の霊に乗り移らせてくれるのです。霊媒師の体を借りた男性は、恋人の女性と触れ合い、抱きしめ合います。そして、やがて男性の霊は恋人に“愛している”と告げながら、光に包まれ天国へと昇華していくのです。
 私は、この作品を観(み)た時、愛している人と再会したら、触れ合いたい、抱きしめたいと思うのが人情だと思いました。天国とは、愛する人との再会の場所です。その時、単に“霊”だけではなく、神さまは私たちに「霊の体」を用意して、触れ合えるように、抱きしめられるようにしてくださる。そんな粋(いき)な計(はか)らいを神さまはしてくださるのです。
 つい先日、教会のある方と、霊の体って、どんな姿なのでしょう?という話を交わしました。もし見た目が一つだとしたら、生きていた時に年齢によって、親が見ていた自分の姿、逆に子どもが見ていた姿、あるいは友人が見ていた姿はそれぞれ違うのだから、見た目が一種類しかなかったら、自分の愛する人だと認識できないのではないか?そんな疑問が浮かびました。“でも、霊の体なのだから、相手に合わせて、相手に都合よく見えるのではないでしょうか”。そんなことを言って笑い合いました。
 天国の全貌は、私たちにははっきりとは分かりません。けれども、私たちを愛する神さまがきっと最善に計らってくださるでしょう。その恵みを信じて、慰めと希望を抱いて地上の人生を歩みたいと願います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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