坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神の国が来ますように」

2023年11月12日 主日礼拝説教             
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

 9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇(あが)められますように。
10御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
12わたしたちの負(お)い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
悪い者から救ってください。』


「神の国が来ますように」
10月7日、数千発のミサイルを、ガザ地区の武装勢力ハマスがイスラエルに打ち込んだことによって、今回のパレスチナ・イスラエル戦争が勃発(ぼっぱつ)しました。1ヶ月余りが過ぎた今、パレスチナ側では9千人以上、イスラエル側では1400人以上の死者が出ていると言われています。双方で多くの市民が命を失っています。虐殺も起こっているようです。私たちにとっては、まるで“対岸の火事”のような出来事ですが、無関心にならず、ともかくまず、平和と人々の命の安全を祈り求めていきたいと思います。
パレスチナ問題と言われる、パレスチナ人とユダヤ人(イスラエル)の争いは、第2次世界大戦後の1948年にユダヤ人がパレスチナの地にイスラエル建国を宣言したことから始まりました。その前年に、国際連合がパレスチナの地にアラブとユダヤの二つの国家を作るという〈パレスチナ分割決議〉を採択したためです。パレスチナはユダヤ人にとって“神の約束の地”でした。けれども、パレスチナに古くから住んでいるアラブ系住民にパレスチナの43%の土地しか与えられない。この分割決議に住民とアラブ諸国から猛反発が起こり、それ以後、戦争と争いが繰り返されることになったのです。
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 パレスチナ人にとっても、ユダヤ人にとっても、自分たち民族の国を持つということは悲願だと言ってよいでしょう。グローバルな現代社会においては、どちらか一方の願いだけを認め、肯定することは難しいことです。そのような是非の問題とは別の事柄として、私たちは聖書を通して、ユダヤ人の国家建設の歴史を知ることができます。
 今から3千年以上の昔に、ユダヤ人のルーツとなった人々が、エジプトから脱出しました。奴隷として使役(しえき)され、苦しめられていた人々が、モーセに導かれて、“乳と蜜の流れる地”と言われるパレスチナを目指したのです。そして、その地に住んでいた諸民族を打ち破り、住み着きます。当初は12部族による連合でした。やがて彼らは、サウル王を戴(いただ)き、イスラエル王国を建国します。ちなみにイスラエルとは、彼らの先祖であるヤコブが、ヤボク川のほとりで神さまとレスリングをしたことから付けられた“神と格闘する者”という異名から取ったものです。そして、第2代のダビデ王の時代に国は大きく発展し、栄えます。けれども、その後、次第に衰退し、やがてアッシリアやバビロニアといった大国によってイスラエルは国を滅ぼされ、捕虜になったり、海外に散り散りにされます。その後、一度は国を復興しますが、主イエスの時代には、ローマ帝国によって再び支配され、独立した、自由な国は失われていました。独立国家の復興は、主イエスの時代のユダヤ人にも切なる願いでした。
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 そのような時代状況の中で、主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言って宣教を開始されました。そして、弟子たちには、「御国(みくに)が来ますように」(10節)と祈りなさい、と教えられたのです。
 ちなみに、マタイによる福音書では「天の国」という言葉が何度も使われます。その他に「御国」という言葉が数回出てきます。マルコ、ルカによる福音書では「神の国」という表現がなされます。これら3つの言葉は基本、同じです。マタイによる福音書では、“神”という言葉を何度も使うのは畏(おそ)れ多いという気持があるため、その代わりとして「天」という言葉が使われています。
 「御国が来ますように」。けれども、弟子たちの多くが、そして民衆は、この祈りを誤解して受け取りました。と言うのは、主イエスが「近づいた」と言って宣(の)べ伝えている「御国」「神の国」を、ユダヤ人の独立国家として受け取ったのです。自由と完全な自治を持ったユダヤ人の国家復興の「時」が近づいている、と考えたのです。なぜ近づいていると言えるのか。それは、主イエスが救世主メシアとして、ユダヤ人を率(ひき)い、ローマ帝国を打ち破ると信じたからです。だから、彼らは、主イエスを戦いのリーダーとして、そして王国復興の暁(あかつき)には王として戴こうとしていたのです。こんな状況ですからその期待は無理もありません。
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 けれども、主イエスが祈り求めた「御国」とは、そのような国家ではありませんでした。主イエスが、ユダヤ教ファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」(ルカ17章20節)と尋ねられたことがありました。その問いに対して、主イエスは、こうお答えになりました。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(21節)。
 主イエスが宣べ伝えた「神の国」とは、ユダヤ人が切望した、目に見える、形ある、政治的な国家ではなかったのです。それは、目には見えないものです。でも、確かにあるもの。あなたがたの間にあるもの。人と人との関係性の中に現れるものです。
 神の御心(みこころ)を表わす律法(聖書)において、主イエスが最も重要だと言われたのは、「心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章37~39節)との教えでした。そして、この教えの真髄(しんずい)を汲(く)み取って、最後の晩餐(ばんさん)の席上で、弟子たちに遺言(ゆいごん)のように命じられたのが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)との「新しい掟」(34節)でした。
 神を愛する。それは、神に愛されているからです。神の御心に適(かな)わない人間である私たちが、神に赦(ゆる)され、愛され、生かされてある恵みを信じて、喜び、感謝して神をあがめる。それが、神を愛するということでしょう。そして、神に愛されている者として、神の愛の心を汲み取り、神の愛に応えて、自分を愛するように隣人を愛する。神に、主エスに愛されている者同士として互いに愛し合う。そのような者同士の間に、関係性の中に、「神の国」は見えないものとして現れるのです。“愛”のあるところに現れるのです。言わば神の国とは“愛によるネットワーク”であると言えるでしょう。そして、教会は、そのような“小さな愛のネットワーク”を目指し、祈り求めている交わりです。
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 “あなたがたの間に愛はあるか?”。主イエスは、信仰を通して、御言葉(みことば)により、聖霊(せいれい)により、私たちに一人ひとりに問いかけておられます。人間関係において、時には耳に痛い、心に刺さる問いかけです。けれども、「御国が来ますように」との祈りを“空念仏”にしてはなりません。御国を祈り求めることは、主イエスのこの問いかけの前に立ち続けるということです。逃げないことです。“私”を愛してくださる主イエスの愛を信じて悔い改めることです。“私に愛を満たしてください”と祈り続けることです。
 愛されていることを感じると、私たちは嬉しくなります。心がホッコリします。互いに愛し合う愛を実感できたら、そこに私たちはきっと“神の国”を感じるでしょう。そんな「御国」を、私たちの間に祈り求めていきましょう。

 

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