坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「天の国を受け継ぎなさい」

2023年11月19日 神学校日礼拝説教
聖 書 マタイによる福音書25章31~46節
説教者 堀尾 隆神学生(日本聖書神学校)

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇(かわ)いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

「天の国を受け継ぎなさい」

本日の聖書箇所は、イエスさまが再臨(さいりん)したときにどうなるかについて書かれています。24章45節から再臨の時についてイエスさまが譬(たと)えを用いて語られ、今日はその一連の話の最後の箇所になります。私は、この箇所を読むとドキッとしてしまいます。それは、この箇所には神の裁きが書かれているからです。冒頭には、天に昇られたイエスさまが再び天使たちとともに来られ、栄光の座に着かれ、そして、すべての国の民が栄光の座に着かれたイエスさまの前に集められ、右と左に分けられ、右は正しい者、左は悪い者と、確実にどちらかに振り分けられるとあって・・・一体、私はどちらに振り分けられてしまうのだろう?と、そんな不安が心を過っていきます。

聖書は、その内容の通りに読むと、本当に自分の心にグサっとささることが多くて仕方ありません。正直、苦しくなります。自分がこれまで生きてきた人生で良い行いをしてきたのだろうか?それとも神の目に悪とすることを多くしてきて救われないのではないだろうか?・・・自分は天国に行けるのか?それとも行けないのか?・・・本当に不安になります。私が青年時代、母教会である初雁教会のクリスマス祝会で、青年会の出し物で寸劇(すんげき)を披露(ひろ)したことがあって、今日の聖書箇所をパロディでやった憶(おぼ)えがありますが、確か劇の台本は山岡創先生が作られ、劇そのものがパロディで面白ろく、集まったみなさんの笑いをとっていました。・・・しかし、今回の話は、実際には笑えない話なのかもしれません。(笑)

今日のポイントとなる聖句は40節です。45節も同じように書かれています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」 45節では「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」とあります。ポイントとなるのは「小さい者」「わたしにしてくれたこと」です。

では、この箇所に出てくる「最も小さい者の一人」とは、一体、誰のことを言っているのでしょうか?

この部分を読む時に、「小さい者」とは、パッと頭には今の世の中で立場的に弱い人のことが思い浮かばれます。確かにそれもあるでしょう。けれども、そこだけに限定はされていません。わたしが飢えていたとき、のどが渇いていたとき、旅をして宿が見つからなかったとき、裸のとき、病気のとき、牢にいたとき・・・と、どのような人でも起こり得る事です。いずれにしても、そのような状況は、その人にとって社会的に最も小さい、立場として小さくなっていると言うことで、小さい存在である者ということになります。

その後にこう言っています。そのようなときにお前たちは「わたしを」助けてくれた、と。「わたし」とは、栄光の座についたイエスさまのことです。

しかし、これを聞いていた人たちは良くわからず、「ん、何のことを言っているの?」という感じです。聞いていた人たちは「いつ、私たちはイエスさまを助けたでしょうか?」 自分たちはイエスさまを助けたとは全く身に覚えがありません。確かに、イエスさまそのものが瞬間移動するわけではありませんし、「小さい者」と言われている人のところに全ているわけでもありません。でも、イエスさまは、確かにそこにいて、あなたたちは「このわたしを助けてくれた」というのです。・・・つまり、社会の中で小さい存在と言われる全ての人とイエスさまを同定(どうてい)されているのです。「小さい者」とはわたしのこと、「小さい者」とはイエスさまそのもののことなのです。

そして、この「小さい者」とは、私たちの身のまわりにいる隣人(りんじん)ということにもなります。なので、この話は聖書の中だけの話ではなく、今のこの時にも通じる話です。今もなお、「小さい者」とはイエスさまそのものなのです。イエスさまの存在は時間も空間を超えています。隣人にするということは、イエスさまに(神さまに)していることと同じなのです。

さて、私たちはイエスさまに会っているでしょうか? これまでの話の流れでは、私たちはイエスさまに会っているということになります。これは衝撃(しょうげき)の事実です。私たちはイエスさまに会っているのです。これまでも会ってきていましたし、今も会っているのでしょう。そして、これからも会い続けていきます。イエスさまは遠くにいるのではないのです。すでにイエスさまは私たちの身近におられるのです。そして、もっと言うと、今は私たちの内側にもおられるのですが、それは私たちのうちにも内在してくださっているのです。

私たちは、これまで出会ってきた「小さい者」と言われる、私たちの隣り人に対して何をしたのでしょうか? そして、何をしなかったのでしょうか? 私たちは目の前でイエスさまと出会っていた機会をどのように接してきたのでしょうか?・・・隣人を愛するというのは、イエスさまを愛することであって、そして、同じく神を愛することです。

私たちが神を愛すると言った時、それは、神さまに対して祈り、み言葉を聞き、礼拝に出て、神さま中心の歩みをするということに限定はされない。むしろ、日々の歩みの中で、普段の生活の中において、常に私たちはイエスさまがすぐそばにおられる・・・そのような中にいるのです。日々、自分のことで精いっぱいであるかもしれない。他の人のことで構(かま)っていられない状況にあるかもしれない。でも、私たちのまわりに、すぐそばに「小さい者」がおられるのです。

イエスさまは、ご自身のことを「小さい者」と言われました。本当にそうなのでしょうか? だって、最後の時にイエスさまは天から天使たちとともに来られ、最後の審判をする方なのです。天地創造がなされる前から父である神とともにおられる方です。受肉(じゅにく)され、この世に来られ、人々に福音(ふくいん)を宣(の)べ伝えられ、病気を癒(いや)し、悪霊を追い出し、奇跡を示された方です。どうしてそのイエスさまが「小さい者」と言えるでしょうか?王の王、主の主と呼ばれ、神の子と呼ばれているお方です。

私たちが信じる最上級にして最大のこのお方、イエスさまは、最も大きく最も小さい方です。そして天におられ地におられる方です。私たちが信じ、共におられる神はそういったお方です。天を見上げ崇(あが)めるだけではない。神の側から私たちの方に来られる方です。そのお方とこれからの日々も共に歩んでいきましょう。イエスさまは言われます。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』 祈りましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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