坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「地の上に神の御心が行われるためには」

2023年11月26日 主日礼拝説教             
聖 書 マタイによる福音書6章9~13節
説教者 山岡 創牧師

9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
10御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
悪い者から救ってください。』
「地の上に神の御心が行われるためには」
 “神はいない!”。10月7日、パレスチナの武装勢力ハマスが数千発のミサイルを撃ち込み、地上部隊がイスラエルの領地に侵入して、住民を虐殺しました。この攻撃にイスラエル側がガザ地区に報復反撃したことにより、今回のパレスチナ・イスラエル戦争は始まりました。イスラエル側に1200人以上、そしてパレスチナ側には11000人を超える死者が出ています。どちらもその多くは一般市民です。先日、ハマスに捕らえられていた人質25人が解放されました。遠く離れたところにいる私たちは、“主よ、平和を”と、「地の上にも、御心が行われますように」(10節)と祈る以外にありません、
 夫を、子どもを、家族を殺されたパレスチナ人の女性がメディアに向かって叫びました。“ユダヤ教にも、キリスト教にも、イスラム教にも、神なんていない!”と。その叫びに胸が痛みます。
 戦争とその悲惨な状況に、私たちにも“神は本当にいるのか?”と疑いの気持が生じるかも知れません。戦争や災害の悲惨を目の当たりにすると “神がいるならどうして戦争や災害のような悲惨な出来事が起きるのか?”と疑問を投げかける人がいます。そのように言いたくなる気持も分からないではありません。ならば、神はいないのでしょうか?この世に戦争や災害が起きるということは、ユダヤ教にも、イスラム教にも、キリスト教にも神はいないという“証拠”なのでしょうか?
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 確かに、自然災害について言えば、私たちの意思や力が及ぶ問題ではありません。ですから、それは偶然の自然現象か、神さまが御心によってなさったことか、という問題になります。神さまを信じる者であるならば、それを“偶然”とは言いたくありません。とすれば、“神さま、なぜですか?”と思いを投げかけたくなります。けれども、はっきりとした答えを見つけることはできません。宗教信仰を持つ人の中には時々、“自然災害は人間の罪に対する神の怒り、神の報(むく)いだ”と言う人がいます。でも、私は、そんなに簡単に言うことはできないと思っています。たとえそれが神さまの御心であるとしても、それは私たちには分からないのです。私たちにできることは、“被害を、悲しみを、人の死を、神さま、最小限にとどめてください”と祈ることのみでしょう。
 けれども、戦争に関して言えば少し違います。現在のロシアによるウクライナ侵攻にしろ、パレスチナ・イスラエル戦争にしろ、歴史上の戦争を引き起こしているのは“神”ではなく“人間”だからです。人の意思と力が直接介在しているからです。
 もし私たち人間が“神さまのロボット”であるならば、戦争は、操縦ミスをした神さまの責任ということになるでしょう。けれども、神さまは私たちを、自分の意思で、自律的に生きられるように造られました。そして、エデンの園で、最初の人アダムとエヴァは、神の御心に背いて、禁じられた木の実を食べ、しかも自分の行動を正当化し、責任転嫁しようとしました。それが御心から外れた人間の罪の姿なのです。
 現代において、もし人間が、どんな宗教であれ神の御心に本当に従うなら、戦争は起きないと私は思っています。この世に争いを望む神などいない。もしいるとしたら、それはもはや神と呼ぶに値しないでしょう。私たちが信じている主イエス・キリストの父なる神、三位一体の神にしても、その御心は“愛と平和”です。
 けれども、人間は自分の欲望、損得、思想、都合で動く生き物だと私は思います。そして、そのような動きが別の人間とぶつかるならば、人は争います。戦います。戦って自分の得たいものを勝ち取ろうとします。
 しかも、そのような自分の動きを、適当な理屈を並べて正当化しようとします。時には、自分が信じている神を“出汁(だし)”にして正当化しようとします。自分が考えていること、自分がしようとしていることは、神の御心なのだ、と。この考えがいちばん始末に悪い。神の御心だと思い込んでいますから、対話をせず、だれの注意も反対も聞かないからです。戦争が宗教信仰によって正当化されると、それは“聖なる戦争(ジハード)”になります。それによって争いも、戦いも、人を殺すことさえも、すべてが正当化され、肯定されるのです。そして、このような信仰的、宗教的な自己正当化を人が行う時、まさに“そこに神はいない”のです。ユダヤ教にも、イスラム教にも、キリスト教にも、神はいない。あるのは、人の身勝手だけ、人の罪だけです。
 だから、“神がいるならどうして戦争が起きるのか?”という問いかけは、気持としては分かりますが、事柄をそのように問題を神さまに丸投げするとしたら、それはズレた問いかけであると言わざるを得ません。むしろ、私たち人間が自分自身の責任を問わなければなりません。自分は神さまによって造られた存在として、神の御心に従って生きているだろうか?と自分の責任を問わなければなりません。問い続けなければなりません。それが信仰的に筋道の通った考え方です。
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 神がいるかいないかは科学的に証明することはできません。論理的に説明することもできません。それは、信じるか信じないかという信仰の問題です。生き方の問題です。そして、私たちが、自分を吟味(ぎんみ)反省して、身勝手を戒(いまし)め、神の御心を捜し求めながら、御心に従って生きようとするなら、神の御心は地の上にも行われるようになるのです。そして、憎み、争い、戦う人の姿ではなく、自分を戒め、神の御心に従って謙虚に、愛と平和のために生きようとする人の姿を見る時、私たちは理屈抜きに、“この人のもとには神がおられる”と認めるのではないでしょうか。
 ゲッセマネの園での主イエスの祈りを思い起こします。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)。敵対するユダヤ教の指導者たちに捕らえられ、十字架刑にされる前夜のことです。主イエスの願いは、十字架という「杯」を取りのけていただくこと、十字架で処刑されないことでした。血と汗が滴(したた)るほど主は祈られたとあります。
 けれども、主イエスはその願いを押し通そうとはしません。神の御心が行われるようにと祈り、愛と平和のために、人の救いの実現のために、十字架にお架かりになりました。人間の罪を背負い、償(つぐな)うために自分の命をお献(ささ)げになったのです。そこに、主イエスと共に、神はおられました。
 私たちは、ここまで厳しく神の御心に従うことはできないでしょう。神の御心と思っても従えないことが多々あるでしょう。けれども、神の御心は何かと捜し求めながら、従って行こうとする意志を失わずに、信仰の道を進みたいと思います。御心が地の上に行われるのは“私たち”を通して、です。だれかが私たちを見て、“神なんていない”と思われないようにしたい。まず自分の周りに“小さな平和”を少しでも実現していきたい。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(10節)、“地には平和、この私から”と祈りながら、神の御心である愛と平和の道を進みましょう。そこに、そのような私たちと共に、神はおられるのです。

 

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