坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神は我々と共に」

2023年12月3日 待降節第1主日礼拝説教             
聖 書 イザヤ書7章10~15節
説教者 山岡 創牧師

10主は更(さら)にアハズに向かって言われた。11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に。」12しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試(ため)すようなことはしない。」13イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14それゆえ、わたしの主が御自(おんみずか)ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。15災いを退(しりぞ)け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜を食べ物とする。

「神は我々と共に」
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。どこかで聞いたことのある御言葉(みことば)だ、と思われた方が少なからずおられるかと思います。この言葉は、マタイによる福音書1章で、天使がヨセフに、イエス・キリストの誕生を告げる場面の23節に出てきます。ヨセフの許婚(いいなずけ)であるマリアは男の子を産む。その子は、神が共におられることを表わす救い主だという神さまのご計画を予(あらかじ)め預言した言葉として引用されているのです。多くの方が、今読んだイザヤ書の言葉としてよりも、マタイによる福音書1章にあるクリスマス物語の一場面(いちばめん)に出て来る言葉として記憶されているのではないでしょうか。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。
今年もクリスマス・シーズンを迎えました。今日からイエス・キリストの降誕祭(こうたんさい)であるクリスマスに備える〈待降節(たいこうせつ)アドヴェント〉が始まります。昨日、担当の係の方たちがクリスマスの飾り付けをしてくださいました。その第1主日の礼拝で、救い主イエス・キリストが誕生することを預言したイザヤ書の御言葉に耳を傾けたいと思います。
       *
 とは言え、イザヤのこの預言の言葉は当時、直接イエス・キリストの誕生を預言したものではないと考えられます。それは、イエス・キリストがお生まれになる時から遡(さかのぼ)ること700年から800年も昔、紀元前8世紀、当時のユダヤの状況に対して、当時のユダヤの王であるアハズ王に預言された言葉です。
 当時、パレスチナにあった小国であるアラムの王レツィンとイスラエルの王であるペカが相談しました。/おい、ペカ。大変なことになっているぞ。/何だ、レツィン?何事だ?/隣りのメソポタミアにアッシリアっていう大国ができたらしいぞ。その国が南下して来て、俺たちの国を滅ぼし、支配しようとしてる、という情報をつかんだんだ。/何、そいつはまずいな。で、どうするんだ?/小さな国同士、俺たちは軍事同盟を結ぼうじゃないか。/なるほど、それは名案だな。だが、俺たち二つの国だけじゃ、たぶんアッシリアに対抗できないぞ。/確かにそうだ。よし、他の国とも連絡を取って、同盟に引き入れよう。まずは海辺の隣国ペリシテだな。/俺は南ユダのアハズ王を誘ってみよう。昔、けんか別れをして二つの国に割れたが、元々イスラエルと南ユダは同じ民族として一つの王国だった。国家存亡の危機だから、話せば分かってくれるだろう。
 ところが、この軍事同盟の誘(さそ)いに、アハズ王は応じなかったのです。/おい、アハズの奴(やつ)は誘いに応じないぞ。頑(かたく)なに同盟を拒んでいる。/まずいな、このままではアッシリアに対抗することが困難になるぞ。/それだけじゃない。もしアハズ王がアッシリアの傘下(さんか)に入ったら、俺たちの国が背後から襲(おそ)われることになる。/それはまずい!、よし、こうなったらそうなる前に先制攻撃だ。アラムとイスラエルで南ユダに侵攻して、アハズを倒してしまおう。/そうだな。そして、その後で俺たちの言うことを聞く新しい王を南ユダに立てよう。/そんな事情で、隣国アラムとイスラエルが、南ユダの都エルサレムに攻め上って来たというのが7章の最初にある話です。そのために、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(2節)と書かれています。
       *
 アハズ王の心は動揺しました。けれども、王のもとに神の預言者であるイザヤがやって来て、神の言葉を告げるのです。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(4節)と。そして、アラムとイスラエルの企ては実現せず、あなたと南ユダ王国が滅ぼされることはない、と語りました。
 しかも、そのしるし、その証拠を見せようとイザヤは言うのです。聖書を読んでいると、神さまは、信じるためのしるしを求めることを嫌がられるという印象があります。しるしなどなくても、私の言葉を聞いて、目には見えなくともわたしを信じよ、と言われるのが神さまだと思うのです。ところが、この場面では、アハズ王を安心させるために、神さまは「しるし」(10節)を求めて良い、と言われるのです。「深く陰府の方に」(10節)というのは、徹底して人間の方に求めてみよ、ということです。これはアッシリアに援助を求めて、了解されれば、それが勝利のしるしであるという意味だということです。他方、「あるいは、高く天の方に」(10節)というのは、徹底して神の方に求めてみよ、ということで、神の言葉、預言の言葉を信じて、人間に頼らず、アッシリアの援助を求めず、自力で防衛するということだそうです。
 けれども、アハズ王は、そのどちらにも求めませんでした。アッシリアに援助を求めて、もし負けたら‥‥、あるいは勝っても、後で国をいいようにされるという懸念(けねん)があったからです。かと言って、神とその言葉を信じて、強い意思と信仰を持って自国を防衛するという勇気と決断もありませんでした。もちろん、神さまは、安易に人間の力に頼らずに、神を信じて、恐れず勇気を持って進む道を選ぶことを望んでおられたのでしょうが、アハズは中途半端で、優柔不断で、煮え切りません。
 その態度をもどかしく思われた神さまは、自らしるしを与えると言われます。それが“インマヌエル預言”で語られていることです。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれる。もっとも、これはアハズ王にとって好ましいしるしではありませんでした。
 新しい王が即位することを、聖書の中では、神が王を生んだと表現することがあります。おとめが男の子を産むというのは、単純に男の子が生まれるだけではなく、アハズに代わる新しい王の誕生が預言されていると考えられます。「災いを退け、幸いを選ぶ」(15節)王が、神とその言葉を信じ、強い意志と信仰を持って決断する新しい王が立てられる。そのような王となる男の子が生まれ、成長する。イザヤは南ユダ王国の危機に臨(のぞ)んで、そのように預言をしました。
 そして、この預言が約800年後、神と共に歩む神の国の新しい王、救い主イエス・キリストの誕生を預言した約束の言葉として受け止められたのです。
       *
 私たちは、イエス・キリストをユダヤの救い主としてだけではなく、世界の救い主として、そして自分自身の救い主として信じます。私たちも、自分の人生を見舞う出来事に、「森の木々が風に揺れ動くように動揺」することがあります。目に見える出来事、目の前の事実に、私たちは心を弱くします。
 そのような時にこそ「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と語りかける神の言葉に耳を傾けましょう。私はあなたがたに、私の独り子イエス・キリストを与えた。これは、救いのしるし、私があなたがたと共にいるしるし、たとえあなたがたが危機の中に、恐れと不安の中にあっても、私があなたがたと共にいて支え、最善へと導くしるしである。良いことも悪いことも、すべてに意味があり、あなたの益となる。
今年のクリスマス、改めてインマヌエル、神が共にいてくださる恵みに心を留めましょう。恵みを信じ、祈り、ゆだねて進む時、そこにきっと平安が訪れます。

 

リンク     インスタグラム

     日本キリスト教団 坂戸いずみ教会