坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「共に」

 

2023年12月17日 待降節第3主日礼拝説教         
聖 書 マタイによる福音書1章18~25節
説教者 山岡 創牧師

◆イエス・キリストの誕生 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒(いっしょ)になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁(えん)を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎(たい)の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
「共に」
 こらっ!何してるんだ!。ガラッと窓を開けて、私は怒鳴(どな)りました。と言うのは、窓の外に我が家の屋根の上を歩く人影が見えたからです。何人かいます。どうやら子どものようです。いたずらだな、と思い、叱(しか)ってやめとさせよう窓を開けたのです。
 ところが、私が窓を開けて怒鳴った瞬間、一人の男の子がバランスを崩(くず)して、まるでスローモーションのように屋根を転がり、落ちていきました。大変だっ!私は階段を駆(か)け下(お)り、玄関から飛び出して、その子が落ちたと思われる場所に向かって走りました。
 けれども、どんなに走っても、その場所に着かないのです。玄関を出て、裏に回れば着くはずなのに、いくら走っても着かず、むしろどんどん離れていくのです。しまいには、全く関係のない場所に来ていました。あの子はどうなったのだろう?自分の責任だ‥‥そんなことを思った時、目が覚めました。夢でした。
 1週間ほど前に見た夢です。どうしてこんな夢を見たのでしょう?不思議な夢でした。
       *
 私たちは不思議な夢を見ることがあります。ヨセフも不思議な夢を見ました。天使が出て来る夢です。夢の中で、天使はヨセフに告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)
 ヨセフは苦しみ悩んでいました。婚約していたマリアが身ごもったからです。それは、「二人が一緒になる前に」(18節)という言葉が暗示しているように、ヨセフには身に覚えのないことでした。聖書は、「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)と記していますが、そんなことはすぐに分かるはずがありません。
 そこでヨセフは、マリアと「縁を切ろうと決心し」(19節)ます。身に覚えのないところでマリアが身ごもったという事実に耐えられなかったのでしょう。そして、そんなマリアと結婚することが、神の掟(おきて)である律法に照らして正しいとは思えなかったからでしょう。「表ざたにするのを望まず、ひそかに」(19節)縁を切ろうとしたのは、マリアが姦通(かんつう)の罪を問われ、処刑されないようにするせめてもの配慮だったかも知れません。
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 ところが、そのように苦しみ悩んでいた時に、ヨセフは夢を見たのです。そして、マリアを妻として迎え入れよ、という天使の言葉を、天使を通して示された神の言葉を聞いたのです。その言葉のとおり、ヨセフはマリアを妻として迎え入れました。それは、ヨセフが「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と信じて受け入れたということです。自分の考え、自分の見方、自分の決心に従うのではなく、神の言葉に従ったということです。「正しい人」と言われる自分の“正しさ”を押し通さずに、神の言葉にこそ本当の“正しさ”があり、“愛”があり、“真理”があると思い直し、信じたということです。
 ヨセフはこの問題に苦しみ悩みながら、聖書の中に、神が示される御心はないだろうかと探し求めていたのかも知れません。そして、葛藤(かっとう)と祈りの中で示されたのが、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)という言葉だったのではないでしょうか。これは、旧約聖書イザヤ書7章14節からの引用です。
 12月3日のアドヴェント第1主日の礼拝で、私たちはこの御言葉(みことば)に耳を傾けました。ユダ王国のアハズ王は、戦争の危機と不安の中で、預言者イザヤが語る神の言葉に聞き従わず、自分の考えで行動しました。結果は同じだったのかも知れませんが、それは神さまの喜ばれる生き方ではありませんでした。そのためにイザヤは、アハズ王に代わって、神の言葉に聞き従う新しい王が生まれると預言したのです。インマヌエルと呼ばれる王が、神が共におられる王が生まれ、成長し、立てられると預言したのです。
 婚約したマリアが身ごもって男の子を産もうとしている。自分にとっては苦しみ悩みの出来事である。律法の掟に従うなら、マリアと縁を切ってこの問題を解決し、この苦悩に早く終止符を打ってしまいたい。けれども、本当にそれでいいのか?ヨセフは、正しいと思われる自分の決心を前にして、なおも迷い、葛藤する人でした。神の御心(みこころ)を、人生の“真理”を探し求める人でした。そしてヨセフは、イザヤ書7章14節の御言葉を示され、ハッとしたのではないでしょうか。
 自分は苦しみ悩んでいる。でも、マリアもまた苦しみ悩んでいるのではないか。人の知恵、人の力ではどうすることもできない出来事に苦悩しているのではないか。そして、実はそこに、神は共におられるのではないか。苦しみ悩む「我々と共に」、自分とマリアと共におられるのではないか。自分の力ではどうすることもできない現実と苦悩を包むように神は共におられるのではないか。ヨセフは御言葉によって、この恵みにハッと気づいた。苦しみの現実をそのように受け入れて生きようと決心し直したのではないでしょうか。それこそが聖霊を信じる信仰です。それこそが夢で示された神の御心なのです。
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 神さまはどこにおられるのでしょう?私たちは、自分の人生がうまくいかず、苦しみ悩んでいる時は、神さまは自分と共におられないと思うかも知れません。自分の思い、自分の考え、自分の決心だけで動こうとするかも知れません。けれども、その時にこそ夢をみたいのです。神の御言葉と祈りを通して、信仰の夢をみたいのです。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ書7章4節)、私はあなたと共にいるからゆだねなさい、と語りかけてくださる神の夢を見たいのです。
 苦しみ悩み、神さまが共にいてくださることを信じられず、忘れそうになるほど辛い 時、こんな夢を見ることができたら、私たちは幸いです。
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留(と)めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛(つら)いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試(こころ)みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていたのだ。」(詩「あしあと」マーガレット・パワーズ)

 

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