坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「幼子イエスのいる場所へ」

2023年12月24日 待降節第4主日・クリスマス礼拝説教

聖 書 マタイによる福音書2章1~12節
説教者 山岡 創牧師

◆占星術の学者たちが訪れる
1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝(おが)みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者(ぼくしゃ)となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝(おが)もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


「幼子イエスのいる場所へ」
 私は散策を趣味にしています。月曜日の休日、時間に余裕のある時は、散策に出かけます。私がよく行く場所は、東村山、小平、東大和といった埼玉県に隣接し、西武線でつながっている地域です。自然環境と市街地が融合していて、遊歩道も多くあります。
 先日も玉川上水沿いに、とてもすてきなカフェを見つけました。CazeCafeといって森の中にあり、障がいを負った人たちが働く施設が経営しています。2階テラスの席は、森の木々と木漏れ日に包まれて、店員さんが“小平の軽井沢って呼ばれているんですよ”と教えてくれました。しかも、その隣には小平市が営む〈こもれびの足湯〉という無料で入れる足湯があります。自然と街中の道を10数キロ歩いて、カフェでコーヒーをいただき、足湯で歩き疲れた足を癒(いや)す。とても楽しいリフレッシ・タイムです。
 初めての道を歩く時、私はスマフォでグーグルのナビゲーション・システムを使います。“ここから○○までのルート”と入れると、地図上で2、3通りのルートを表示してくれます。案内開始のボタンを押せば、音声で指示を出してくれますし、地図上で今、自分がどこを歩いているのかが分かります。残りの距離と到着時間も出ます。いや、便利なものができたなぁ、とつくづく思います。
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 占星術の学者たちにとってナビゲーション・システムとなったものは「星」でした。彼らはその星を調べ、占って、「ユダヤ人の王」(2節)の誕生を知り、星に導かれて東方から遙々(はるばる)やって来たのです。彼らは当時のペルシア人で、ゾロアスター教の祭司だったのではないかと言われています。学者たちはこの世界に大きな影響を及ぼすかも知れない救世主を、国を越え、民族を超え、宗教を超えて「拝みに来た」(2節)のです。
 けれども、学者たちの“ナビ”は完全ではありませんでした。その星は「ユダヤ人の王」の誕生の“時”は示しましたが、GPSのように正確に“場所”を示しませんでした。だから、彼らは直接その場所に行くことができず、ユダヤ人の王様ならエルサレムで生まれるのが相場だと考えて、エルサレムにやって来て、その所在を尋ねたのです。
 占星術の学者たちの来訪を知った現任(げんにん)の王であるヘロデと彼を取り巻く人々は「不安」(3節)を抱きます。不安定な立場で王に就(つ)いていたヘロデは、いつか王座から追われるのではないかと恐れていたからです。不安の芽は早めに摘(つ)んでしまいたい。そう考えたヘロデ王は、まずユダヤ教の祭司長や律法学者たちを招集します。そして、「ユダヤ人の王」、救世主メシアは「どこに生まれることになっているのか」(4節)と、彼らにその場所を問いただしました。彼らは聖書から、その場所はユダヤのベツレヘムだと答えます。6節の引用は旧約聖書・ミカ書5章1節の言葉です。
 “場所”の情報を得たヘロデ王は、もう一つの情報を得ようと学者たちを王宮に呼び寄せます。それは、「ユダヤ人の王」が生まれたという“時”の情報です。「ひそかに」(7節)呼び寄せたのは、自分がその「ユダヤ人の王」を殺害しようとしている意図を、学者たちにはもちろん、周りのユダヤ人たちにも悟(さと)られないようにするためです。そして、「わたしも行って拝もう」(8節)などと心にもないことを言って、学者たちを利用しようとベツレヘムへと送り出すのです。
 一方、場所の情報を得た学者たちはベツレヘムへと向かいます。すると、役に立たなかったナビゲーション・システムが再び機能し始めます。「東方で見た星が先立って進み」(9節)始めたのです。最近のカー・ナビも定期的に情報を更新する仕様になっています。最新情報に更新してやると、新しいルートや場所が追加され、より正確にナビの役割を果たすようになります。聖書から、ベツレヘムという新たな位置情報を得た学者たちには、その星が示している“場所”の情報が読めるようになったのでしょう。そして「ついに幼子のいる場所」(9節)を探し当て、喜びにあふれて宝を献(ささ)げ、拝むのです。
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 さて、今日ここに、私たちも、ヘロデ王によってではなく、神さまによって招かれ、「幼子のいる場所」を探し当て、礼拝するためにやって来た、と言っても良いでしょう。幼子イエス、救い主イエスは、私たちにとってどこにおられるのでしょう?ベツレヘムというのは、私たちにとって「幼子(おさなご)のいる場所」ではありません。それは象徴に過ぎず、幼子、救い主イエスのいる場所は、もはや空間的な場所ではないのです。私たちはそれを、精神的な世界に、あるいは私たちの人生という道の上に求める必要があります。
 その場所に私たちを導くナビは“聖書”です。占星術の学者たちが聖書の言葉を聞き、導かれて「幼子のいる場所」にたどり着いたように、私たちも聖書の言葉を聞き、自分自身に当てはめて思い巡(めぐ)らすことで、救い主イエス・キリストのおられる場所に導かれるのです。そこは、自分の宝を献げられるほどに価値ある、喜びの場所です。
 聖書は、その場所をどこだと、私たちに示しているでしょうか?先週の礼拝で聞いた直前の1章で、マリアの夫ヨセフに、天使が夢の中で神の言葉を語りかけました。その言葉を通して、ヨセフは「神は我々と共におられる」(1章23節)ということを示されました。苦しみ悩む自分の味方として、支え導くお方として神が自分と共におられることを信じ、ヨセフは神の導きに従いました。その意味で、神は、言い換えれば救い主イエス・キリストは、私たち一人ひとりの人生と共に、“私”の苦しみ悩みと共におられるのです。その恵みを信じる時、私たちの人生の現場は「幼子がいる場所」になるのです。
 そして、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)で、私は、「幼子は母マリアと共におられた」(11節)という言葉にハッとしました。何度もこのクリスマス物語を読み、語りましたが、11節のこの言葉に注意を留めたのは、実は初めてのことです。「幼子は母マリアと共に」、つまり“だれか”と共におられるということです。そうであるならば、自分以外の“だれか”が生きている人生とその現場は、救い主イエス・キリストがおられる場所ということになります。そして、私たちがその“だれか”に寄り添って生きるなら、その関係はお互いにとって「幼子のいる場所」、救い主が私たちを愛し、寄り添うように共におられ、支え導いてくださる場所となるのだと思います。神は“私(個人)”と共におられる、とは言わず、「神は我々と共におられる」と言うのは、そのことを示しているのでしょう。互いに愛し合う関係性、生き方の中に、幼子、救い主イエス・キリストは共におられるのです。
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 この説教の後で、二人の青年、KさんとIさんの洗礼式を行います。二人は、自分の人生という地図の上で、聖書というナビを通して神の言葉に導(みちび)かれ、「幼子のいる場所」、イエス・キリストの愛の下に生きる喜びの道を探し当てたのだと言ってよいでしょう。それは二人にとっては「別の道」(12節)です。神と共に歩む人生の新しい道です。この場所へ、この道へ私たちも御言葉(みことば)によって導かれ、探し当て、絶えず歩き続けていくならば、そこにはきっと大きな喜びが備(そな)えられています。

 

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