坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「逃れる道をも」

2023年12月31日 主日礼拝説教

聖 書 マタイによる福音書2章13~23節
説教者 山岡 創牧師

◆エジプトに避難する 13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆ヘデロ、子供を皆殺しにする 16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆(なげ)き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰(なぐさ)めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
◆エジプトから帰国する 19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
「逃れる道をも」
 先週24日、ギュッと1日に詰まった喜びのクリスマスを共に過ごしました。幼子イエス、救い主イエス・キリストが私たち一人ひとりの歩みと共に、私たちの間に、共におられ、支え導いてくださる恵みを、御言葉から聞きました。その恵みを信じて、私たちもまた占星術の学者たちのように、喜びをもってこのクリスマスから歩み始めました。
 けれども、このクリスマスの喜びに続く今日の聖書箇所(せいしょかしょ)は、まるで“人生は喜びばかりではないよ”“世界は恵みに満ちた出来事ばかりではないよ”と語りかけてくるかのようです。私たちが歩む人生、生きる世界には、苦しみや悲しみもある。残酷(ざんこく)で、悲惨(ひさん)な出来事も起こる。2章1節から23節へと続く御言葉(みことば)は、あたかも“天国”から“地獄”へと突き落とされたような感さえあります。これが現実世界であり、その中で生きる私たちの人生ということなのでしょうか?それでも、私たちは希望を捨てず、そこに輝く導(みちび)きの星を見、語られる神の言葉を聞きたいのです。
       *
 ユダヤの王ヘロデは、「占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒り」(16節)ました。ヘロデは、学者たちによって知らされた、自分の王座を脅(おびや)かすかも知れない新しい王、救い主メシアを殺害し、不安の芽を摘(つ)んでしまおうと企(くわだ)てました。学者たちに救い主を探索させ、「わたしも行って拝もう」(8節)と噓(うそ)を言って、救い主の所在を知らせるようベツレヘムへと彼らを送り出したのです。ところが、学者たちは救い主の居場所をヘロデに知らせず、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行」(12節)きました。
 だますつもりの自分がだまされたことを知ったヘロデ王は大いに怒(いか)りました。そして、怒りに任(まか)せて自分の不安を解消する行動に出ます。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させ」(16節)るという暴挙を実行したのです。反抗する力もない多くの赤子を虐殺(ぎゃくさつ)する。どんなに残酷(ざんこく)で、凄惨(せいさん)な状況だったでしょうか。命じられた兵士たちも、自分の心を殺し、“悪魔”にならなければできない所業だったに違いありません。
 10月7日に始まったパレスチナ・イスラエル戦争は今もなお激しい戦闘が続いています。クリスマス前の時点で、特にパレスチナ人の死者は2万人に上り、そのうち8千人は子どもだそうです。エルサレムに住む一人の母親がこんな投稿をアップしていました。
 2週間前、私は東エルサレムで第一子を出産しました。息子は健康で、夫も私も息子をとても愛しています。その一方で、私は悲しみと罪悪感を覚えています。ガザの母親たちは、子供が犠牲(ぎせい)になった場合、埋葬(まいそう)される前に身元が確認できるよう、子どもの手に名前を書いています。病室ではなく、がれきの中で出産したり、麻酔なしで帝王切開したりしています。がれきの下に自分の子どもが埋まったままの母親もいます。我が子の死という想像を絶する苦しみに耐(た)えています。そして、常に子どもの命が脅(おびや)かされていることに恐怖を感じています。そのことを知っているので、私は生まれたばかりの自分の子どもと過ごすという普通のことに幸せを感じる度(たび)、罪悪感も覚えます。‥‥‥
               (国際NGO セーブ・ザ・チルドレン/ネット記事)
 母親が「激しく嘆き悲しむ声」(18節)が、この言葉の中から聞こえてきます。ベツレヘムで2千年前に起こった虐殺は、形を変えて現代でも起こっています。今の日本では、このような事態は想像できませんが、かつての太平洋戦争の際には、日本がアジアでこのような非人道的な事態を引き起こしたでしょうし、日本国内でも空襲によって多くの母親が我が子を失い、激しく泣き悲しんだに違いありません。
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 さて、ヘロデの暴挙、虐殺が起こった時、ヨセフとマリア、そして幼子イエスは、夢のお告げによってその難を避け、エジプトへと脱出しました。この逃避行がなかったら、やがて主イエスが長じて、神の愛を宣べ伝えることもなく、十字架に架けられて死に、復活することもなく、キリスト教による救いは世界に広がらず、2千年の歴史の中で数え切れない人々が救われることもありませんでした。そう考えると、この逃避行(とうひこう)がどれほど重要な神のご計画であったか、言葉では言い尽(つ)くせないでしょう。
 けれども、だからと言って、この時行われたヘロデの虐殺と、赤子の死と、数知れない母親の嘆き悲しみが、神のご計画として肯定されるとは思えません。マタイは、エレミヤ書31章の預言が実現したと言いますが、私は、マタイに反対するようですが、神さまがそのようにご計画されていたとは思いたくないし、そうは受け取れません。
 私たち人間は、自分たちの罪を、責任を、神さまに丸投げして責任転嫁をしてはならない。人の罪は人の罪です。ただ、そのような罪の出来事を通してさえも、神さまは救いを織り込んでくださる、救いの道を、「逃れる道」(Ⅰコリント10章13節)を備(そな)えてくださる。それが神のご計画だと言うのなら、それは信じたいと思うのです。嘆き悲しみの中にさえ、神さまは救いの道を、「逃れる道」を備えてくださると信じたいのです。
 ならば、救いの道、逃れる道とは何でしょうか?ヨセフとマリアのように、悲惨な事態から実際に脱出できるなら、それに越したことはありません。困難を解決する道があるのなら、それを選びたいと思います。けれども、解決することも、逃げることもできず、嘆き悲しみを味わって、それを耐えていかなければならないような現実が、私たちの人生には少なからずあります。私たちの思惑や力ではどうすることもできないのです。そのような状況のいったいどこに、救いの道、逃れる道があると言うのでしょうか?
       *
 私はふと、かつてユダヤ人がヒトラーによって大虐殺されたことを思い起こしました。今は逆に、ユダヤ人がパレスチナの人々に大きな痛みを与える側になってしまっていますが、第2次世界大戦の際のナチス・ドイツによって、600万人ものユダヤ人が虐殺されました。子どもも大人も殺されて、どれほど激しい嘆き悲しみがもたらされたか分かりません。“神も仏もあるものか!”と神を呪(のろ)い、信仰を捨ててもおかしくない悲惨な、不条理な現実です。
 けれども、ユダヤ人はその嘆き悲しみの中でも、それが終わった後でも、信仰を捨てませんでした。疑うこと、揺らぐことはあったでしょう。でも、神を信じて歩み続けました。信じることをやめたら、希望の拠(よ)り所を失うことを分かっていたのだと思います。
 そのことが思い浮かんだ時、どんなに辛く、嘆き悲しみの出来事に襲(おそ)われた時でも、神さまを信じ、希望を託(たく)し、神と共に歩む人生こそが、私たちにとって救いの道、逃れる道ではないかと思ったのです。
 現代日本に生きる私たちは今、戦争や虐殺による嘆き悲しみが自分に起こるとは想像できないでしょう。けれども、違う形での嘆き悲しみが私たちの人生を襲うことはあります。けれども、嘆き悲しみの人生にも神は共にいきてくださる。神さまが最もすばらしい救いの御業(みわざ)をなさるのは、“まだ暗いうち”(N.V.ウェバー)なのだと信じて歩むことができたなら、私たちの人生には希望があり、慰(なぐさ)めが訪れるでしょう。

 

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