坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「見ないのに信じる幸い」

2024年3月31日 復活祭・イースター主日礼拝説教       
聖 書 ヨハネによる福音書20章24~29節
説教者 山岡 創牧師

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
     「見ないのに信じる幸い」
 「あなたの指をここに(手のひらに)当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)。もしも皆さんが、主イエスから面と向かってこう言われたら、どうしますか?はい、分かりました、と言って、主イエスが十字架に架けられた際に打たれた釘跡に指を入れ、槍で突かれた脇腹に自分の手を入れて確認しますか?‥‥
 私は、この聖書箇所を読むたびに、思い出さずにはいられない話があります。それは、以前にS教会を牧会していた隠退教師であるM先生がお話してくださったエピソードです。先生が青年だった頃、属していた教会において、イースターのお祝いの席で劇が行われたそうです。それは、今日の聖書箇所の劇で、しかもパロディーでした。復活したイエス役の人が、トマスの役の人に向かって、あなたの指と手を差し入れてみなさい、と言うと、トマス役の人が、分かりました!と言って、躊躇(ちゅうちょ)なく指と手を差し入れる。“おいっ、本当に入れるんかい?!”と、そこで笑いを取るストーリーでした。
 そして、そのシーンになりました。イエス役の人が、私の手とわき腹に、あなたの指と手を入れなさい、とトマス役の人に声を掛けた。ところが、トマス役の人は、セリフも言わず、固まって動かない。おいっ、何してるんだ?早く、指を入れろよ。シナリオと違うじゃないか!イエス役の人はそう思い、焦りを感じたそうです。けれども、彼はどうしても自分の指を、自分の手を差し伸べて入れることができなかった。劇とは言え、自分が本当に主イエスに迫られているように感じたからでしょう。
 その人は求道者だったそうです。そして後日、この劇がきっかけとなって、この人はイエスを自分の救い主と信じて洗礼(せんれい)を受けたそうです。
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 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)。どうして主イエスは、このようにトマスに言われたのでしょうか。それは、トマスが、主イエスが復活したことを信じない、と断言したからです。
 十字架に架けられ、死んで葬(ほお)むられた主イエスは、安息日が終わった日曜日の早朝、婦人たちが墓に行った時、そのご遺体が墓穴にはありませんでした。婦人たちは悲しみ、それを聞いた弟子たちが戸惑いました。ところが、主イエスはまずマグダラのマリアに現れ、その後、部屋に閉じこもっていた弟子たちのところに現れました。「あなたがたに平和があるように」(19節)と言われる主イエスを見て、弟子たちは喜びました。
 ところが、その時トマスは弟子たちと一緒にはいませんでした。だから、トマスは主イエスにお会いすることができず、その言葉を聞くこともできませんでした。トマスが戻って来た時、他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」(24節)とトマスに告げました。けれども、トマスは彼らの言葉を信じることができません。そして、おもむろに「あの方の手に釘の跡(あと)を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言い放ったのです。
 トマスという弟子は人並外れてかたくなで、疑り深い人だったのでしょうか?そうではないと思うのです。信じるって、実はそう簡単なことではないのではないでしょうか。うまく行っている時は“信じます”と口で言うのは簡単かも知れない。けれども、うまく行かず、逆境に襲われ、苦悩や困難の中に置かれたら、その状況でなおポジティブに、神さまの導き支えを信じて生きるのは難(むずか)しいことです。そんな時、だれしも“これっ!”と言った信じるきっかけがほしい。“これっ!”と言った信じるに足る何かを見たいと思うのではないでしょうか。そんな、信じられないけれど信じたい、という思いが、トマスの「あの方の手に釘跡を見‥‥」という言葉に込められているように思うのです。
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 そんなトマスの願いに応えて、主イエス「八日の後」(26節)、つまり次の日曜日に、再び弟子たちのもとに現れました。そして、トマスにそのまなざしを向けて、「あなたの指を当てて、わたしの手を見なさい‥‥」と言われたのです。それでもいいから、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語りかけられたのです。
 トマスにしてみれば、この1週間、後悔の気持が胸から離れなかったかも知れません。自分はみんなの前で、主に対して、なんてことを言ってしまったのだろう、と。あの時、思わず口から出てしまったのかも知れない。他の弟子たちが皆、主を見たと言って喜び合っているのに自分はその喜びの輪の中に、同じ温度で加われない。寂(さび)しかったと思います。疎外(そがい)されている気持になったと思います。だから、思わず心にもない暴言を吐いてしまったかも知れない。意固地(いこじ)になってしまったかも知れない。そんな自分が嫌で仕方がない。でも、一度吐いてしまった言葉は元には戻せない。自分はこれからどうしたら良いのだろう?トマスは1週間、葛藤(かっとう)し、苦しんだに違いありません。
 ところが、主イエスは、そんなトマスの思いをすべてご存じで、あなたの言葉のままでいい。あなたの思いのままでいい。さあ、私の手の釘跡に指を入れなさい。わき腹の穴に手を入れなさい。それでいい。それでもいいから私の復活を信じてほしい。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)。信じて、私と共に生きる者となってほしい。
 トマスは心を打たれたに違いない。感動したに違いない。その言葉と態度にトマスが感じたものは、圧倒的な神の愛以外の何ものでもなかったと思います。トマスは、自分の意地もこだわりも、後悔も葛藤も、すべてを受け入れる神の愛に包まれたのです。この愛に包まれ、この愛を主イエスから感じたからこそ、言い換えれば主イエスに“神”を感じたからこそ、トマスはこたえるのです。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と。
 それはトマスの有りっ丈(たけ)の信仰告白です。私はあなたの愛を喜び、感謝し、あなたの愛に包まれて生きていきます、という信仰告白です。そう信じて生きる生き方こそ、復活の命です。天国に行ってからいただく永遠の命だけが復活の命なのではありません。信じる者は今、愛によって復活し、キリストの愛とともに復活の命を生き始めるのです。
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 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と主イエスは言われます。これは実は、“この後”の時代を生きる“私たち”への言葉ではないでしょうか。私たちはもはや主イエスを直接見ることはできません。けれども、聖書の言葉を通して主イエスの“愛”に打たれ、生き方が変えられることがある。また、つたなくとも教会において、「互いに愛し合いなさい」との主の教えに生きる人と人との交わりの中に、主イエスの姿を感じ取ることができる。そこに、主イエスが生きて働いています。そこに、主イエスが言われる「幸い」があります。“愛”があります。

 

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