坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「わたしを愛しているか」

2024年4月7日 主日礼拝説教       
聖 書 ヨハネによる福音書21章15~19節
説教者 山岡 創牧師

◆イエスとペトロ
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼(か)いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締(し)めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現(あらわ)すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

「わたしを愛しているか」
 ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。静寂を破り、主イエスがペトロに問われました。十字架で死んで、けれども三日目に復活された主イエスは、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖畔)で弟子たちに現れました。湖に漁に出て、何も取れず、身も心もボロボロになっている弟子たちに、主イエスは湖畔で魚を焼き、パンを取って弟子たちに振る舞ってくださったのです。だれも一言も発さない。「あなたはだれですか」(12節)と聞かない。皆、それが主イエスだと分かっていたからです。食事をする弟子たちの内には喜びが沸々(ふつふつ)と湧(わ)き上がって来たことでしょう。
 黙々(もくもく)と静かな、喜びの食事が続いたと思います。この静寂(せいじゃく)を破れる人がいるとしたら、それは主イエスだけです。主イエスがこの場のイニシアティブを握っています。そして、その主が静寂を破ります。それはいきなり、思わず息を飲むような切り込み方でした。ペトロ、わたしを愛しているか?と。もし私たちが主イエスから面と向かってそのように問われたら、何と答えるでしょうか?真っすぐに“愛しています”と答えられるでしょうか?いや、えっと驚き、目は泳ぎ、もごもごと口ごもってしまったかも知れません。
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 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)。
ペトロはそう答えました。何とも歯切れの悪い答えです。どうしてペトロは、“はい、主よ、わたしはあなたを愛しています”と真っすぐに答えなかったのでしょう?それは“過去”があったからです。
 主イエスが振る舞うパンと魚を食べながら、弟子たちは今までの主との交わりを思い起こしていたことでしょう。その中には、主イエスを見捨てた苦い記憶もあったに違いありません。
 ペトロは、主イエスが捕らえられた後で、あなたも主イエスの仲間だろう?と尋問(じんもん)されて、“違う”“知らない”と1度ならず3度までも主イエスとの関係を否定しました。その出来事を思い起こし、かみしめていたに違いありません。主イエスは、温かく包むように、何も責めない。何も問わない。主イエスに赦(ゆる)されていること、愛されていることは空気で分かる。肌に感じる。涙が出るほどありがたいのです。
けれども、その温かさは心苦しくもあるのです。もっと言えば、少しは責(せ)めてほしいような気持さえするのです。その方が、かえってホッとする場合が、私たちにもあるのではないでしょうか。何も言われないのは、かえって辛(つら)かったりするのです。
 その時、主イエスが静寂を破ります。ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(16節)。ペトロは瞬間、かつての自分を思ったでしょう。死んでもあなたのお供(とも)をする、と豪語(ごうご)した自分。けれど、主イエスが捕(と)らえられた後で、恐(おそ)ろしくなり、主イエスを3度否認した自分。そんな自分が赦され、愛されていることを今、ひしひしと感じている。だから、主イエスを愛さないはずがない。でも、自分の弱さを身をもって味わった。だから、かつてのように何も考えず、単純に、歯に衣(きぬ)着せず思ったことを口にすることなどできない。慎重(しんちょう)に言葉を選んだ結果、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という言葉になったのだと思うのです。歯切れが悪いなんて、失礼しました。それは、ペトロがその心から紡(つむ)ぎ出した答え、精一杯の信仰告白です。
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 そんなペトロの答えに、主イエスはそのたびに、「わたしの(小)羊を飼いなさい」(17節)と命じられました。「わたしの羊」とは、主イエスを信じる人々、その群れのことです。つまり、教会のことです。主イエスは、主イエスがこの後、天に昇り、天から聖霊(せいれい)を弟子たちに送ることによって生まれるであろう教会を愛するように、信じる人々の群れの世話をするように、導くようにとペトロに言われたのです。もちろん、他の弟子たちにも言われているのですが、最初に「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われたのは、弟子たちの先頭に立って教会を愛し、導(みちび)くことを期待してのことでしょう。
 この後、主イエスは天に昇られます。ペトロや弟子たちの前からいなくなります。だから、主イエスを愛するということは、目に見えない神を愛するということです。そして、目に見えない神を愛するということは、神の愛を信じる信仰を持って、目に見える人を愛することにほかなりません。神への愛を隣人(りんじん)への愛に還元するのです。日々の生活の中で、だれかを愛して生きるのです。それが、主イエスを愛することです。
 神を愛することも、隣人を愛することも、たやすいことだとは言えません。「わたしを愛しているか」と主イエスが3度問われたのは、ペトロが3度、違う、知らないと主イエスを否認したことを、ペトロの心の中で上書(うわが)きさせるためになさったのだと思います。一見厳(きび)しく思える主イエスの言葉の内には、主の愛がギュッと込められています。けれども、ペトロは、その愛も意図(いと)も察(さっ)することができず、「悲しくなった」(17節)と書かれています。日々の生活とその出来事の中で、私たちが“神さまの愛とその意図(いと)”を察するのは本当に難(むずか)しいことです。
 そんなペトロに、主イエスは、羊を飼うとは、人を愛するとはどのようなことかを教えておられます。それは、次の言葉によって表されています。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)
 単に肉体的な衰えと共に、自分でしたいようにはできなくなる、という意味だけではありません。年齢と共に、愛の喜び、悲しみを経験して、愛するということが分かってくるということでしょう。愛とは、行きたいところに行くようにはできない。それはつまり、愛とは自己本位にはいかない、ということです。「他の人」である相手のことを考える必要があります。時には自分の言い分、自分の正義を引っ込めなければなりません。
 主イエスが十字架にお架(か)かりになって、命を懸(か)けて私たちを赦(ゆる)し、愛されたことを、カトリックのシスターであった渡辺和子さんは、こう言っておられます。
  許(ゆる)す時、私たちは愚(おろ)かにならないといけないのです。
              (『愛することは許されること』PHP研究所、51頁)
 もし、あまりにも度を越えて、人をゆるし、愛する人がいたら、私たちはきっとこう言うでしょう。“あんた、バカじゃないの!”と。そうです。その人は愚か者になっている。敢(あ)えてなっている。賢(かしこ)く、自分の言い分や正しさを主張していたら、ゆるすことはできないからです。愛するためには愚かにならねばならない。それが十字架で死んだ主イエスの、復活して弟子たちに現れた主イエスの真骨頂(しんこっちょう)でしょう。
 その愛が少しでも心に染(し)みるなら、私たちも、「わたしに従いなさい」(19節)と最後に言われた主イエスの、愚かなまでの愛の後ろ姿に続き、愛の道を歩み、主の万分の一でも人を愛して生きる者となれれば、そう願うのです。

 

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