坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年10月24日 主日礼拝説教 「偶像を離れ、生ける神に立ち帰る」

 

聖 書 使徒言行録14章8~20節

説教者 山岡 創牧師

 

◆リストラで

8リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。
9この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
10「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
11群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
12そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
13町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
14使徒たち、すなわちバルナバパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで
15言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
16神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。
17しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
18こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。
19ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
20しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

 

「偶像を離れ、生ける神に立ち帰る」

 皆さん、この写真(プロジェクター画像)、何だか分かりますか?‥‥これは、川越市の市役所の斜向かいに〈和牛ひつまぶし・うし川〉という、ローストビーフと牛の炭火焼専門店があって、その店の前においてある金の牛の像です。この前の月曜日に、傘を

買おうと思って川越に出掛け、街中を散策していた時に見つけました。写真で見たことはあったのですが、実物を見て、“これか!”と思いました。等身大の、立派な像でした。

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 今日の聖書の御言葉を黙想している時、「偶像」(15節)という言葉から、思わずこの金の牛の像を思い浮かべました。と言うのも、旧約聖書出エジプト記に、イスラエルの人々が、金の雄牛の偶像を礼拝するシーンがあるからです。
 それは、荒れ野にあるシナイ山の麓で起こった事件でした。エジプトの国で長い間、奴隷生活を強いられて来たイスラエルの人々は、神さまが救いのために遣(つか)わしたモーセに導かれて、エジプトを脱出しました。そして、カナンの地を目指すのですが、その途中、シナイ山の麓で、人々は神さまと契約を交わします。それは、神はイスラエルの人々を祝福し、人々は神の掟(おきて)を守るという契約でした。そのために、モーセは山に登り、契約書である石の板に、神さまから授けられた掟である十戒を刻みます。

 一方、人々は山の麓でモーセの帰りを待っていました。けれども、待てど暮らせどモーセは戻らない。モーセは死んでしまったのではないか?不安を感じた人々は、モーセの兄であるアロンに、モーセとその神に代わって、荒れ野で自分たちを導く神をつくってくれ、と懇願(こんがん)します。では、皆、金のアクセサリーを持って来なさい。アロンは集めた金で雄牛の像をつくり、人々はこの偶像を礼拝してしまいました(出エジプト記32章)。
 やがて戻って来たモーセはこの有り様を見て、激しく怒ります。そして、金の雄牛を砕き、アロンを叱(しか)り、人々には罰(ばつ)を与えるのです。
 今日の聖書の御言葉から、私はこの話を思い起こしました。イスラエルの人々が拝んだ金の雄牛も〈和牛ひつまぶし・うし川〉の金の像のような感じだったのでしょうか。偶像礼拝、それはイスラエルの人々が歴史において絶えず犯し続けた罪でした。そして、今日の聖書箇所にも、偶像礼拝の問題がピックアップされています。
         
 パウロバルナバは、シリア州のアンティオキア教会から送り出され、キプロス島から小アジア地方(現在のトルコ)の町々を巡り、人々にイエス・キリストの救いを宣べ伝えていました。二人がリストラという町に行った時のことです。生まれつき足が不自由で歩いたことがない男がいました。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」(10節)パウロがそのように声をかけると、その人は立ち上がって歩き出したのです。
 それを見た町の人々はとても驚きました。奇跡が起こった!、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」(11節)!そう思った人々は、二人を神として祭り、いけにえを献げ、拝もうとしました。ちなみに、ゼウスというのはギリシアの神々の最高神であり、またヘルメスというのは、富と幸運の神、旅人の神、更には盗人の神と言われています。
 二人は最初、人々が方言で騒いでいるので、何が起こっているのか分からなかったようです。けれども、自分たちが神々として礼拝されそうになっていると知り、慌てて人々の中に飛び込み、やめさせようとして叫びました。「あなたがたがこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)
 モーセが、イスラエルの人々に、神との契約条件として伝えた神の掟・十戒。その第一の戒めとして「あなたには、わたしのほかに神があってはならない」とあり、第二には「あなたはいかなる像も造ってはならない。‥‥それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と偶像礼拝が禁じられています(出エジプト記20章)。
 だから、ユダヤ人であるパウロバルナバからすれば、ギリシアの神々は偶像であり、それらを礼拝することは十戒を破り、自分たちが信じる神をないがしろにすることになるわけです。当時の教会、クリスチャンからすれば、他宗教の神々はすべて偶像でした。
         
 さて、現代のクリスチャンである私たちにとって、偶像、そして偶像礼拝に当たる行為とは何でしょうか?ユダヤ教の伝統を受け継いでいるキリスト教は、多神教ではなく、唯一神教です。だから、父、子、聖霊なる三位一体の神のほか、他宗教で信じられている神々は、すべて偶像ということになります。偶像とは、人間が造り出した神であり、本物の神とは、天と地と海と、そしてそのなかにあるすべてのものを造られた方」(15節)、つまり私たち人間を造られた神です。私たちはその方を唯一の神として信じます。だから、もし本気でキリスト教の信仰を持ち、イエス・キリストを信じようと志すならば、日本は“八百万の神々”と言われる宗教的風土ですが、神社やお寺にお参りをしたり(観光は別)、他宗教の神々を礼拝することは控えるべきです。
 同時に、現代は他宗教に排他的な態度を取る時代ではありませんから、他宗教と、その神を信じている人々の信仰を否定することも控えるべきです。“お前の神さまは偽物だ!”、もし私たちがそう言われたら、嫌な気持になるでしょう。逆も同じです。他の人々の信仰を尊重する。それが、宗教的にフェアな態度です。
         
 けれども、偶像礼拝の問題はこれだけではありません。他宗教との関わりだけではなく、私たちは、“目には見えない偶像”を造り出し、礼拝してしまうことがあります。
 先週の礼拝説教で、宗教に限らず、私たちは、自分がこだわっているものや、思い込みの激しいものがあると、その正しさを主張し、その正しさを証明しようと躍起になります。自分と違う人、反対の人を間違っていると断じ、排除し、潰したくなります、とお話しました。つまり、自分(の考え)を絶対化してしまうのです。
 神さまを信じるということは、自分は神に造られた存在である、被造物であると自己認識することです。言い換えれば、絶対は神さまだけであり、自分たち人間は相対的な存在であると認めることです。簡単に言えば、自分は正しいなんて主張できない、ということです。それなのに、私たちは、自分の正しさを主張し、自分を絶対化して、相手を否定したり、対立したり、争ったり、排除したりすることが少なからずあるのではないでしょうか。それは、自分を“神”とする偶像礼拝にほかなりません。
 私も昨日、家族との間で言い争いをしました。“礼拝が10時30分から始まらないことがある”“いや、始まっている”“見ている時計によって多少ずれがある。1分以内なら誤差の範囲だ”。客観的に見ると、詰まらない言い争いです。そのことに途中で気づいて、“すみません。10時30分から始めます”と謝りました。小さなことです。でも、私たちは“小さな神”になります。そういう自分に、信仰によって、御言葉によって常に気づかされる人間でありたいと思います。

 

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